【前書き】
今回アップする『Basser』過去記事は、「来日外人シリーズ」の第2弾、1989年夏号に掲載されたラリー・ニクソンの記事だ。
今や伝説とされるニクソンの初来日(1989年3月、琵琶湖でのJBTA主催、ダイワ協賛によるラリー・ニクソン来日記念トーナメント)を取材したもの。
前回のジェニファー記事同様、これまた無記名だが、やはり自分が書いている。
試しにYouTubeで検索してみたら、この時の「ザ・フィッシング」のテレビ映像の一部がアップされているのを見つけた。



映像は、プラクティス時に撮影されたものだと記憶している。
この時、自分はテレビカメラが乗るボートにお邪魔させてもらっていた。つまり、まさにこの映像と同じ視点で一部始終を見ていた。
これだけでも充分に幸運なわけだが、試合(1デー戦)当日はなんとニクソンと同船までさせてもらった。
当時、『Basser』は唯一のバス専門誌であり(『Tackle Box』は一応ルアー総合誌という括りだった)、当時の事実上の編集長であった三浦修氏がダイワさんに強く希望したのだと思う。

こうしてみると、自分は恵まれていたのだナァと思わずにはいられない。
が、この時の取材体験はたしかに、自分にとって大きなターニングポイントとなった。
日本には知られていないバスフィッシングの領域、自分の想像を超えたバスフィッシングの世界がどうやらアメリカにはあるのかもしれない、と気付かされたのがこの時の取材だったからだ。

ちなみに、この試合でのニクソンはあくまでもゲスト参戦という形だったのだが、持ち込んだウエイトは2位か3位相当だったはずだ(このあたり、うろ覚えなので、誰か知っている人がいたら教えてほしい)。

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Larry Nixon
「THE HERO on the BOW-FLOOR」

バウ・フロアの上のヒーロー

バスプロなんて言葉がまだない頃、State of Opportunity(チャンスと可能性の州)で彼は生まれた。10代の夢をギュッと握りしめ、今ラリー・ニクソンはここにいる。

リー・ニクソンは1950年の9月3日、アーカンソー州のバプティスト派の説教者の子として生まれた。父親は、カントリーサイドに住むほとんどの男がそうするように、フィッシングとハンテイングを好んだ。ラリーはそんな父親の影響を受けた。リビングのソファーでオレンジジュースを飲みながら子供向け科学雑誌のページをめくるよりも、手に重々しく伝わる魚のファイトや、森で獲物を追い詰める時のスリルのほうが好きだった。

 ラリーが初めてロッドを握ったのはちょうど6歳の時だった。父親に連れられて、初めて生きた魚の感触を昧わった。なかでもラージマウスは最高だった。ラリーは今でも最初に釣ったラージマウスを、初めて見た真夏の積乱雲のように鮮明に覚えていた。最後のひと暴れでバスが上げた透明な水しぶきや、手やロッドグリップに染みこんだバスの匂い、そんなものまでラリーは覚えていた。

 バスフィッシングヘの熱が高まるにつれて、ラリーはベイトキャスティングリールがどうしても欲しくなった。釣りが上手いヤツは皆たいていベイトリールを持っていたし、だいたいスピニングリールよりもカッコよかった。

 ラリーは地元で開かれるちょっとしたフィッシングコンテストに出場することに決めた。コンテストでは一番大きな魚を釣った者に、ベイトリールが贈られることになっていた。自分でも信じられないくらいだったが、そのコンテストで、ラリーは7.4ポンドのラージマウスを釣った。夕方、ラリーがベイトキャスティングリールを持って帰ってくると、父親は新しいロッドを買ってやることをラリーに約束した。ずっと憧れていた、ベイトリール用のガングリップのやつだった。

 1964年、ラリー14歳の夏、ニクソン家はそれまで住んでいたテキサスから、ふたたびアーカンソーに移った。ちょうど秋からラリーがハイスクールに上がる年だった。父親が言う「教育的環境」が、テキサスはあまり好ましくないらしかった。

 ラリーにとってハイスクールはそれほどひどい場所でもなかった。クラスでは常に上から10番以内の成蹟だったし、水泳に野球、ポジションはピッチャーだった。モンローが死んで、ケネディが暗殺され、ベトナムで戦争まで始めたアメリカは、ヘドロの溜まったハドソン川に溺れかけた自由の女神だったが、それでも高校生のラリーにはまだ眩しく美しく見えた。

 ハイスクールにはバスクレイジーも多かった。町が湖に近いせいか、バスフィッシングはかなり人気のある遊びだった。やがて、ラリーはそんなバスクレイジーの1人と友達になった。そいつは筋金入りだった。なんせ、おやじさんと兄貴がフィッシングガイドだった。ボートはもちろん、装備も完璧だった。それからの3年間というもの、週末はバスフィッシングと決まっていた。

 金曜の授業が終わって、その夜から釣り始めた。テキサスまでは、車で数時間だった。アーカンソーにも湖はあったが、「釣り環境」はテキサスのほうが間違いなくよかった。どうやら「教育的環境」と「釣り環境」は反比例の関係にあるらしかった。

 ハイスクール4年の秋、友人は家族そろってテキサスのトレドベンドに引っ越してしまった。トレドベンドはバスレイクとしての知名度が高かったし、事実、バスもよく釣れた。同じような理由から、アーカンソーのガイドたちは同じ頃にほとんどテキサスに移ってしまった。南部のガイドたちにとって、テキサスはフロンティアだったのだ。

 その年のクリスマス休暇に、ラリーは両親を説得してテキサスの友人を訪ねた。 トレドベンドでの日々は夢のようだった。来る日も来る日も湖の上で、こんな生活を毎日送っている友人がうらやましかった。ジングルベルからニューイヤーまで、友人と2人で日に40から150尾のバスを釣った。

 その冬、ラリーはフィッシングガイドをやってみないかとある人物から誘われた。それはマリーナの経営者で、ラリーは腕を見込まれたわけだった。ラリーにとっては願ってもないチャンスだったが、両親は反対した。ラリーを大学に行かせたかったのだ。

 結局、ラリーは2年の短期大学に通った。専攻は農学にした。別に農学に興味があったわけではないが、成績は常にトップクラスだった。大学に通いながら、週末や夏の休暇にトレドベンドでガイドをした。大学をちゃんと卒業するのが両親との約束だったのだ。

 ラリーはガイドとしてもトップクラスだった。マリーナに掛けてあるラリーの予約表はいつも埋まっていた。ガイド料金は1日1人あたり25ドルだったが、そこからボートのレンタル代を引くと、14ドルしか残らなかった。どうやり繰りしてみても、大学の学費をまかなえるほどではなく、奨学金がラリーを助けた。

 ハードな大学時代を過ごしたラリーは、卒業と同時にテキサスヘ移った。最初は渋い顔をしていた父親も、やがてはラリーに協力的になった。父親は持っていたボートをラリーに貸してくれた。ラリーはそのボートに夢を詰め込んでテキサスヘ向かった。テキサスはラリーにとって可能性を意味していた。

 テキサスでは何も問題はなかった。トレドベンドでは、学生時代にガイドをやっていたおかげでラリーの名はある程度売れていた。そして、気が付いたらガイドで食っていけるようになっていた。客にたくさん魚を釣らせてやれれば、客は喜んで金を払うし、チップもはずむ。ラリーは自然と釣りが上手くなっていった。

 父親から借りていたボートは450ドルで買い取った。夏になると両親はラリーに帰ってこいと言ったが、彼は帰らなかった。「毎日仕事があるんだよ、明日も、あさっても、明々後日もさ」とラリーは受話器に向かって微笑みながらそう言った。

 ラリーは毎日レイクに出た。年に300日、そんな生活が2年ほど続いた1974年、24歳の秋のことだった。いつものように湖から上がってきたラリーは、マリーナの桟橋でガイド仲間たちが何か興奮した様子でしゃべっているのを目にした。

「どうしたんだ、何か問題でもあったのかい」とラリーは聞いてみた。

「たしかに問題だよ、これは」と背の低い男が答えた。

「トミーがな、ほらトミー・マーティンさ、ヤツがどうやらバスマスターズ・クラシックで優勝しやがったらしいのさ、オレもたった今聞いたんだけどさ」と髭の男。

 トミー・マーティンはラリーの家のすぐ近くに住んでいて、友人だった。親友と言ってもいいかもしれない。いろいろなことを語りあったし、お互いに助けあった。ラリーは、トミーが今年からB.A.S.S.のトーナメントサーキットを回ると言っていた夜を思い出した。

「あーぁ、今頃ヤツは1万5千ドルの賞金をもらってホクホク顔か、オレもいっちょ出てみるかな、トーナメントに」と背の低い男が言った。ラリーはその男に軽く微笑んでから、父親から450ドルで買い取ったポートに寄せる、静かな波音にじっと耳を澄ましていた。

 ラリーはトーナメントのことを考えなかったわけではなかった。ビル・ダンスやボビー・マーレイ、リッキー・グリーンに交じって闘ってみたいといつも思っていたし、勝つ自信はあった。トミーは口癖のようにこう言った。

「ラリー、トーナメントに出ろよ、人が釣っている時、君はそれ以上釣ってるし、人が釣れない時でも君は釣ってる、これがどういうことだか分かるか、そこにはマネーがあるってことさ」

 それからの2年間、ラリーは金を貯めた。もちろんトーナメントに出るための金だ。年間を通してトーナメントサーキットをまわるためには、かなりの額が必要だった。エントリーフィー、宿泊費、ガス代、それだけの金を注ぎ込んで、マネーを手にする人間はほんのひと握り、いや、ひと摘みにすぎない。ラリーは辛抱強くガイドを続け、たとえ1ペニーでさえ貯金した。

 1977年の1月、ラリーにとって最初のトーナメントは16位に終わった。悪くなかった。そして、ラリーにとって3回目のトーナメントが終了した時点で、すでに彼はクラシック・スタンディングス(注)で8位にランキングされていた。ラリーは夢がすぐそこにぶら下がっているのを実感した。あとはジャンプすればいいだけだった。

 その年のフロリダ州レイク・トホで聞かれた第7回バスマスターズ・クラシックで、ラリーはルーキーとしては異例の2位という成績を残した。次のシーズンからは数社のスポンサーがつくことに決まった。

 1977年秋、ラリー・ニクソンはバスプロと呼ばれるようになり、アメリカもまた輝きを取り戻しはじめていた。

注:クラシック出場資格(当時は上位25位まで)の順位。

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、ラリーは日本にいる。琵琶湖だ。湖では雨が降りだしていた。冷たく、細かい雨だった。コンソールのメータが上がるにつれ、雨は針となって皮膚に突き剌さった。ラリーは、ショアラインに並んだ低い瓦屋根の建物がいくつもうしろに飛んでいき、カモメが湖面を滑空するのを、黒いサングラス越しに見た。そんなショアラインを見ると、ラリーは自分が日本にいるんだと実感できた。

 ドライビングシートの下野正希はスロットルをゆるめた。下野は琵琶湖のことをいろいろ教えてくれた。彼が前方を指さしてラリーにポイントを確認した。

「ここやろ?」

「そう、ここだよ」と、ラリーはうなずきながら下野に答え、ニヤッと微笑んだ。

 ラリーは琵琶湖でのファーストキャストに井筒マリーナを選んだ。南の主なポイントをひととおり回り、デプスサウンダーでそれぞれチェックしていった後、ラリーはまず最初に井筒マリーナでやってみることにした。

 20mほどの間隔を空けて係留してあるヨット群を、ラリーは見た。林のようだった。下野はラリーをちらっと見て、それから同じようにヨットの林を見た。下野がエンジンを止めると、ラリーは立ち上がった。そして、バウフロアでモーターとデプスサウンダーをONにした。

 ここ数日、琵琶湖の活性は信じられないくらい低かった。気温が下がり、山では小雪までちらついた。とても「うららかな春の陽気」といった状態ではなく、それどころか、厳寒期に舞い戻ったようだった。実際に、気温がそこまで下がったわけではないが、少なくとも水のなかではそうだった。

 ラリーがやってくる2日前、湖に出た下野は慌てていた。バスの気配が感じられなかったからだ。次の日も同じだった。そんな状況で、下野が唯一「バスの気配」を感じた場所と方法があった。それが井筒マリーナだった。6フィートほどに伸びたウィードのヘッドやエッジをクランクベイトでトレースした下野は、3日後のトーナメントが見えた気がした。

 ラリーはプラノの引き出し式の大きなタックルボックスから、レーベルのディープダイビングミノーを取り出した。5インチほどで、銀色の、シーバスフイッシングの時などに使うやつだ。下野はラリーの取り出したそのルアーを見て、小さなため息をついた。ホッとしたようにも見えたし、緊張したようにも見えた。ラリーが井筒マリーナを最初に選んだ時点で、下野はかなり焦っていたのだ。

 ラリーはそのルアーを30mほど飛ばした。シングルハンドのロッドを両手で握ってキャストした。バックスウイングでロッドは充分にしなり、ルアーが自然に前へ押し出され、風を切る音がした。ルアーが着水する前にラリーはロッドを左手で持ち、右手はリールのハンドルに触れていた。

 ちょうど5投めだった。ラリーは思い切り身体で合わせた。上半身がのけぞり、ロッドがしなった。ロッドグリップを胸にひきつけ、上半身をのけぞらせたままラインを巻き取った。それから笑うような叫ぶような大きな奇声をあげ、「日本のバスはヤンキールアーが好きなのかい?」と、笑った。

 下野はロッドを膝のうえに置き、ラリーを見つめた。「本物」だと思った。それから、なんだか急におかしくなった。頬の筋肉は緩み、肩に入っていた力が抜けた。ラリーは2ポンドはあるバスを抜き上げると、こう言った。

 「状況によるけど、寒い時には中層を泳ぐルアーがいいんだよ」。

 翌日のプラクティスも天気は同じだった。雨こそ降っていなかったが、あいかわらず気温は低かった。どうやらトーナナメント当日もこんな調子でいきそうだった。ラリーは前日まわったエリアをもう一度チェックした。それは堅田から始まり、自衛隊裏あたりで終わった。

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ーナメント当日、昨日までの天気が信じられないほど、美しい朝暁けが見えた。マリーナの横に広がったちょっとした芝生には、ところどころに水たまりができていた。水たまりは鏡のようだった。見る角度によって、オレンジ色の朝焼けを映したり、碧い空を映したり、慌しく動くエントリーたちを映したりした。だが、そのどれもが実際よりも穏やかな色を放ち、艶つやとしてなにか写真のような印象を見る者に与えた。

 ラリーが外へと通じるホテルのガラス扉を開けた。そのガラス扉にもオレンジ色の朝焼けが映っていた。右手にロッドを持ち、脇に黄色と白のライフジャケットと黒いキャップを挟んでいる。芝生に足を一歩踏み出すと、ラリーは眩しそうに空を見上げた。「トーナメント日和だな」ラリーはそう言って、脇に挟んでいた黒いキャップを被った。

 琵琶湖大橋の下まで徐行したボートは、そこから一気に加速する。エンジン音はバスドラムに似ている。腹に響く8ビートのバスドラムは16ビートになり、アッという間に32ビートに達する。その後、バスボートは風の世界に突入し、深緑色の湖面に張りつきながら、それを切り裂いていく。

 スロットルを開くと、ラリーは左手でキャップを脱いだ。右手はハンドルだった。前屈みで、左手にキャップを持ったままハンドルを握っていた。風がラリーの栗色の髪を引っ張った。今は風の世界だが、止まれば風は感じないだろう。たとえ感じたとしても、それはほんの僅かで、とても心地好いことをラリーは知っていた。3月のこんな日は気持ちよい。ラリーはテキサスの3月を思い出した。夏のように太陽が空に際立たず、激しく輝いたりしない。夏のテキサスはひどい。太陽が地上に降ってきたみたいだ。それに比べて3月は、なにかこう太陽が空ににじんでるというか、空気に自然に溶け込んでいる。空の色もどことなく淡い。でも日本の3月はやはりどこか違う。湿度かもしれない。テキサスの空気は日本ほど湿った感じがしない。あと、空気の透明度だ。日本はボヤボヤした、レンズにフィルターをかけたような穏やかな光に溢れている。ラリーは深緑色の湖面にボートを滑らせながら一瞬そんなことを考えた。

 ラリーはまず手前からやってみることにした。昨日までとは違った結果が出る可能性は充分あった。というか、それはほとんど間違いなかった。だが、ラリーは知らない湖をうろつきまわって、時間をムダにするのだけはどうしても避けたかった。

 堅田の一文字堤防の南側でボートを止めた。キャップを被りながらバウフロアに上がったラリーは、モーターをセットした。ラリーは液晶タイプではなく、フラッシャータイプのソナーを使っていた。このボートには最初、液晶タイプのやつがついていたが、ラリーがどうしてもフラッシャーを使いたがったので、昨日、下野が応急に取り付けてくれたのだった。ラリーは発泡スチロールで固定されたそのフラッシャーを見下ろしながら、フットコントローラーを踏んだ。右手に握られたロッドの先端には、昨日まで使っていたのと同じ、レーベルのダイビングミノーがぶら下がっていた。

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 しばらくの間、堅田から浮御堂にかけてのラインを昨日のように流してみたが、ダメだった。

 「ウエイクアップ」
 ラリーはそう言って、ロッドティップで水面をひっぱたき、ルアーに絡んだウィードをはずした。ウィードをはずすと、ラリーは移動することに決めた。場所は決まっていた。井筒マリーナだ。

 井筒マリーナには、もうすでに何隻かのボートが入っていた。浮御堂からここへやってくる途中、小さな羽虫が何匹も顔に体当たりしてきた。昨日に比べて気温がかなり上がっているようだった。ラリーがモーターでヨットの林のなかにゆっくりと入っていくと、他のボートがヨットから現われたり消えたりした。係留してあるヨットはほとんど揺れていなかった。時々、なにかの金具がマストポールに当たってカラカラと音を立てたが、それはヨットが揺れているせいではなかった。

 ラリーはルアーを交換した。レーベルのミノーからバイブレーションプラグに換えた。まずタックルボックスの引き出しからバイブレーションプラグを取り出した。それは斜めから降り注ぐ淡い陽の光にキラキラと応えた。それからラインを切った。ラインは手で引きちぎった。ルアーはクリンチノット(リバースクリンチ)で結んだが、くるくるとラインを縒るところで、ラリーはそれを手でやらずに、ルアーのほうをグルグルと回した。この一連の動作を終了するまでに、10秒もかからなかった。

 結び終わると、ラリーはすぐに立ち上がって、両手を使ってフルキャストした。風を切る気持ちよい音がして、ルアーはかなり遠くまで飛んでいった。手前にある水色のヨットの向こう、ペンキの剥げかかった赤い色のヨットの横30cmの所に、ルアーは着水した。左手でサミングしているので、ラリーは着水と同時にリーリングすることができた。

 ルアーが着水してしまうと、突然、静けさがやってきた。背中に暖かさを感じ、カラカラというヨットの音と、ハチが飛んでいるようなモーターの回転音だけが聞こえた。カラカラカラカラカラカラ、ヴーーーー。

 ラリーはどういうわけか急に昔のことを思い出した。初めてバスを釣ったときのことだ。父親に連れられて、初めてバスを釣ったときの水しぶきだ。浮上してきたバスが水を割って飛び出し、からだ全体をエビのように曲げて水を銀色に輝かせた、あの瞬間だ。その水しぶきは、今まで何千回と目にしてきた水しぶきとはどこか違う気がした。すごく貴重で、大切なもののようにラリーには思えた。そして、もう一度、あの水しぶきを見たいと思った。

と、その瞬間、ロッドに強烈な衝撃を感じたラリーは、反射的に上半身をのけぞらせた。ロッドが弓なりにしなり、手にバスの振動が伝わると、それまで止まっていた音がいっせいに押し寄せた。いろんな音がラリーの頭の中でせめぎあった。満水のダムをダイナマイトで爆破したみたいだった。ラインが逆回転して出ていくのがわかった。左手の親指がそれを感じた。ラリーは、でかい、と思った。だが、実際にそう叫んでいた。カメラのシャッター音がして、カメラマンが何か叫んだ。

 その後、ラリーは浮上してきたバスを見た。フックはしっかり掛かっていた。ラリーはそのバスを見て、ハンドランディングすることに決めた。抜き上げるには大きすぎた。50cm近い。バウフロアに膝をつき、手を伸ばした。親指がバスの下顎をとらえた。指先に力を込め、しっかりとつかんだ。瞬間、バスが水しぶきをあげ、ラリーの顔にかかった。その透明でキラキラした水しぶきは、初めて釣ったバスのイメージと重なりあい、ラリーは大きな声で笑った。声はあたりに響き、また静けさがやってきた。

 マリーナには人が大勢いるようだった。近づくにつれ、はっきりとしてきた。桟橋とその周辺には、他のエントリーやカメラマン、それに少年たちがいて、ゆっくりと近づくラリーを見つめていた。数mのところまで来ると、あちこちでラリーを呼ぶ声がした。桟橋の先端にボートを留め、ラリーはライブウエルからバスを取り出して、水の入ったビニール袋に移した。集まった人たちはバスをのぞきこみ、口々にビッグフィッシュと言った。

 「ああ、なかなかなもんだよ、なかなかだ」。
 ラリーもそう言って笑い、ウエイインステージヘ歩きだした。

 その時、そこにいたすべての人々は、彼をヒーローだと思った。夢をギュッと握りしめたバウフロアの上のヒーローだ……。

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【あとがき】
前回アップした『Basser』過去記事のあとがきでも少し触れたように、1980年代~90年代にかけてのチームダイワ米国プロスタッフには、今見るとニワカには信じがたいほどのモノスゴイ顔ぶれが揃っていた。
ビル・ダンス、リック・クラン、ラリー・ニクソン、デニー・ブラウワー、ジョージ・コクラン、ギド・ヒブドン、ディオン・ヒブドン、ジェイ・イエラス・・・。
それはまさにドリームチームと呼ぶに相応しい面々だったが、残念ながら、現在はその全員が他メーカーに移籍してしまっている。
自分が知っている限り、彼らは皆、最後までダイワ製品を使いたがっていた。
誰一人として自ら進んでチームダイワを離れたわけではなかったことはここにあらためて記しておく意味があるだろう。
ある選手などは「契約金はいらない。タックルの支給だけでいい」とまで言ったというが、それでも時代の流れには逆らえなかった。

2000年以降、米国では史上かつてない空前の住宅バブルが発生した。
過剰流動性、すなわち銀行から溢れ出した資金がプロトーナメントの世界にも流れ込み、ここでも派手なバブルを発生させた。
賞金の高額化と同時に、選手の契約金もまたうなぎ上りで高騰していったことはご承知の通り。
そんな中、超大物選手を何人も抱えていた米国ダイワがチーム解散の道を選ばざるをえなかったのも、経営上は仕方がなかったのかもしれない。
当時、自分はそれを「仕方がない」とは考えられなかったのだが、その後新たに見えてきたことも多々あり、今は「仕方なかったのだろう」と理解できる。

というのも、米国ダイワが「チーム」を維持するために必要だったコストは、決して選手たちとの契約金ばかりではなかったからだ。

例えば、こういうことだ。

Aというタックルメーカーがある選手とプロスタッフ契約を結んだとしよう。
この時、A社はその選手個人に対して契約金を支払っているわけだが、だからといってA社がその選手のトーナメントでの活躍ぶりを自由に自社製品の広告等に使えるかと言うと、必ずしもそうではない。
A社がトーナメントにおける契約選手の活躍と自社製品の宣伝を結びつけてプロモーションするためには、選手との契約金とは別に、トーナメント運営組織への「上納金」を支払わなければならないのだ。
この時、もしもA社が支払いを拒んだらどうなるのか。
簡単である。
A社はもはや、そのトーナメントの映像や写真はもちろんのこと、運営組織名やロゴなど知的財産として守られているものはいっさい自社の宣伝に用いることが許されないだろう。
必ずそのような強硬手段がとられるわけではないが、トーナメント運営組織としては、いつでもそれを実行できる立場にあるということが重要である。

もっとも、バスフィッシングトーナメントにおける主たるメディアが雑誌であった90年代までは、上納金といっても、せいぜい雑誌広告費とそれに付随するイベント費用くらいのものだった。
その程度であれば、たとえA社がルアーメーカーなどの中小企業であったとしても、まだまだ利益を上げられただろう。

ところが、メインメディアが雑誌からテレビへと移行した2001年から後は、トーナメント運営組織がA社に要求する上納金は桁違いに高額化した。
ビジネスを前面に押し出したFLWが台頭する一方で、2001年以降は老舗であるB.A.S.S.までもがESPNのもとで明確な商業路線を歩み始めた。
そして気付けば、両トーナメント運営組織は出場選手たちのマネージメントまで仕切るようになっていた。
時にトーナメント運営組織は選手が個人的に契約するB社に営業をかけ、B社と公式スポンサー契約を結んだり、その反対に、公式スポンサーであるC社に対して有望選手を斡旋するなどして、選手が他のトーナメント団体へ移るのを防いだ。
むろん、そうした営業行為自体が法的に問題となるわけではないが、多額の上納金を支払える企業が(釣り業界の中では)一部のビッグカンパニーだけに限られてしまったのは事実と言える。

「チームダイワ」最後の3人(=ブラウワー、コクラン、イエラス)は2007年までプロスタッフ契約を継続していたが、そのわずか3年後の2010年には、ESPNがB.A.S.S.を売却し、アウトドア番組からの完全撤退を発表した。
2010年はやがて、トーナメントにおける主たるメディアがテレビでなくなった年として記憶されることになると自分は考えている。
新しいメインメディアが何かと言えば、それはもちろんウェブである。
そして、この新しいメインメディアへの切り替えは、今までトーナメント運営組織への上納金を何らかの理由で拒んできた多くの企業にとっても朗報になる可能性が高いのではないか、と。

というわけで、今回も最後に懐かしい広告を紹介しよう。
1989年夏号をスキャニングしていて目に付いた広告がコレ。

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2007年のクラシックにフェデレーション枠から出場を決めた築山滋氏の若かりしお姿!
窓際のワイルドターキーに80年代を感じたアナタはきっと40代!