『Basser』過去記事アーカイブ

01年12月号:ティム・ホートン@ツアー2001-02第1戦

【まえがき】
 2000年夏から2002年初夏までの丸2シーズン、毎回の本戦レポートに加えて「THE WEEK WITH A PRO」という企画を続けていた。「あるプロとの1週間」というタイトル通り、プラクティス段階から試合終了まで特定のアメリカ人選手に密着取材を行い、その選手のプロフィールや戦略に肉迫するという企画だが、実はこれこそが私が長年いつか実現したいと思い続けていた企画だった。ある意味、コレをやるためにB.A.S.S.の取材を始めたのだと言ってもいいだろう。

 その昔、『Basser』で連載していた「TRUE STORY」という記事を覚えているだろうか。アレは毎回フィールドと目標ウエイトを設定して挑戦者に挑んでもらい、そのプロセスをありのままに伝える「ひとりトーナメント・ドキュメンタリー」とも言うべきものだったわけだが、実はあの企画を開始するにあたって(1997年夏)自分が念頭に置いていたのが「米国プロトーナメントを舞台にしたノンフィクション記事」というアイデアであり、それがこの「THE WEEK WITH A PRO」の原案だった。「TRUE STORY」はいわば、そういったノンフィクション的手法がバスフィッシングの世界で現実に可能なのかどうかを確認するための実験という意味合いがあった。なぜ実験する必要があったのかという話を書き出すと長くなってしまいそうなので、それはまたいつか「TRUE STORY」の記事をここで紹介する時にでもあらためて書いてみよう。

 ともかく、この「THE WEEK WITH A PRO」は自分が渡米する前からずっと温めていた企画であり、B.A.S.S.の取材を開始して2年が経った2000年夏にようやく実現のチャンスが訪れた。どうして2年?と思われるかもしれないが、それは取材環境の機が熟すのにどうしても必要な時間だった。B.A.S.S.のプロを取材するために必要な自分自身の知識と経験の蓄積、カメラボートの手配といった現場での取材態勢など、いくつかの必要条件がちょうど揃ったのが取材開始から2年後の2000年夏だったのである。

 その当時は「コレでいよいよ面白いことができるゾ!」と浮かれたものだが、実際には、この「WEEK WITH A PRO」を行うために必要な取材環境はあまり長くは続かなかった。2000年の夏にESPNによるB.A.S.S.買収の噂が流れ、翌2001年4月にそれが現実になると、外部の人間による取材がさりげなく制限されるようになり、しだいに思うような取材ができなくなっていった。

 今回紹介するティム・ホートン編の「THE WEEK WITH A PRO」は、前回前々回の記事と同じ号(No.120)に掲載された記事であり、舞台はやはり2001年8月のB.A.S.S.ツアー第1戦(ミシガン州レイク・セントクレア)である。しだいにキツくなり始めたESPNによる取材制限を背中で感じながら、「まだヤレるか?」と様子を窺いつつ取材を敢行したw。まさかこの2週間後に世界を震撼させる大事件が第2戦の開催地からほんの目と鼻の先で起こるとは‥‥。



The Week With A Pro
Tim Horton
ティム・ホートン編
in 2001 Michigan BASSMASTER TOUR
ティム・ホートンの名は、彼がまだ学生時代の頃からすでに知られていた。
アラバマ州ピクウィックレイクのフィッシングガイドとして休日を過ごしていた当時のホートンのもとにはプロコンペティターたちからも情報を求める電話が掛かってきた。
そして、トップ150(現バスマスターツアー)に新人として参戦した2年前(1999-2000)、全7試合中3試合をシングル入賞で飾り(1回の優勝を含む)、最終戦を前に早々とアングラー・オブ・ザ・イヤーを獲得するというB.A.S.S.史上初めての快挙を成し遂げてしまったのである。
ホートンは間違いなく今もっとも注目を集めている若手の1人と言えるだろう。


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8/21, 0fficial Practice Day 3
「もう1尾か2尾、ビッグフィッシュを穫れてれば、かなりよかったんだけど……。
この試合のカギは3から4Lbクラスのビッグフィッシュを1日に最低3尾穫ることだろうね。
もし1日に3尾穫ったら、あとは2尾釣るだけでいい。
そうなれば入賞が見えてくる。
だけど、もし1尾もビッグフィッシュを穫れなければ、厄介なことになるだろうね」。


 ティム・ホートンはプリプラクティスなしで試合に臨んでいた。一般的に言って、ホートンのようなストラクチャーフィッシャーマン(地形をねらうタイプ)の場合、パターンを煮詰め、戦略を決定するために必要な時間は、カバーフィッシャーマンよりも多くなるのが普通である。しかし、ホートンは2年前の試合で同じ時期のセントクレアを一度釣っており(結果は計66Lb9ozで6位)、今年6月に開催されたFLW戦(84位)にもスポットで出場していた。情報という点に関しては、もうすでに充分すぎるくらいの情報を持っていた。オフリミットの前にわざわざやってきてプリプラクティスを行なわなければならないほどの必要性はなかったのである。

 「プラクティスの初日はセントクレアリバーを中心に釣った。プラクティスでの釣果をそのまま試合で期待することはできないけど、その日は5尾で17~18Lbは釣ったと思う」。

 湖の北面に流れ込むセントクレアリバーは、2年前の試合でホートンがメインにした場所だった。上流にあたるヒューロン湖と下流のレイク・セントクレアを結ぶ全長約72kmの河川で、深いチャネル(最深部で50ft)と強いカレントが特徴となっている。過去の試合で蓄えた豊富なストラクチャーの情報を有効に利用するという意味では、まったく理に適っていた。

 「興味深いのは、2年前のように他のボートをたくさん見かけなかったってことなんだ。前回はどこへ行ってもボートだらけだったんだけど、少なくとも初日のプラクティスの時は他のボートをほとんど見かけなかった。実はセントクレアリバーが今年はあまりよくないって噂もあったから、皆が敬遠したのかもしれない」。

 2日目のプラクティスはエリー湖からデトロイトリバーにかけてのチェックを行なった。ビッグウエイトの可能性が最も高い場所として、ホートンはエリー湖のことが気になっていたが、これまでほとんど行ったことがなかったため、そのポテンシャルを計る上でも、一度チェックしておくべきだろうと考えたのである。

 「でも、ちょうど風が吹いてしまってね。ひどく荒れていて、しっかり釣り込むことができなかった。エリー湖をチェックするべき日ではなかったね。失敗したよ」。

 しかし、だからといってそれ以上の深追いをするつもりはなかった。もともと、初日にあれほどの手応えがなければ、エリー湖へ行くこともなかったはずであり、結局のところ、本気でエリー湖をメインエリアにしようとは思っていなかったようだ。

 したがって、最後のプラクティスでやるべきことはひとつしかなかった。もう一度セントクレアリバーヘ行き、初日に釣ったスポットを再確認することと、初日に回りきれなかったスポットを釣ってみることである。試合で時間を無駄にしないように、細かな最終チェックをしておくのだ。

 プラン通りにセントクレアリバーに向かったプラクティス最終日、ホートンは数カ所のスポットを回り、4Lb半クラス2尾を含む計8尾のキーパーをキャッチした。推定ウエイトは15Lb。気になっていた他のボートも、初日同様、ほとんど見かけることがなかった。決して悪くはない結果だった。

 「他のアングラーの話を聞いている限りでは、今回の試合は2年前よりも全体的にウエイトが落ちると思うんだ。前回は毎日18Lbを持ってこなければトップ10に残れなかったけど、今回はもしかすると毎日15Lbでもトップ10に残れるかもしれない。目標は1日16~18Lbだけどね」。



DAY 1: 14Lb10oz(5/0) 19位
DAY 2: 9Lb10oz(5/0) 計24Lb4oz 43位


8/23, Day 2
エンジントラブルで朝の貴重な2時間半を失ったホートンはもはやまともな精神状態ではなかった。
「小さいの5尾だけだ」と、帰着したホートンは呟いた。
「4パウンダーをバラした。でも、とにかくスタートで蹟いてしまった。元に戻すのは難しいよ。かなりね……。
だけど、なんとかリミットは揃えたから、まだ挽回できるかもしれない」。


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photo by OGA

 それは試合2日目の朝だった。私はプレスボートに乗り込み、ホートンがいるセントクレアリバーの中流域を目指していた。すべてのコンテンダーがスタートを完了してから30分が経過しようとしていたため、ホートンはすでにエリアに到着し、釣りを開始しているはずだった。私はついでに他のコンテンダーたちの様子を確認しようと思い、遠回りとなるセントクレア・カットオフをあえて通ってセントクレアリバーを遡った。

 ちょうどミドルチャネルとの分岐点にあたるラッセル島を左手に見ていた時だった。白と青のプロクラフトがショアラインの近くに浮いているのが目に入った。それは間違いなくホートンだったが、私はなぜ彼がそこにいるのか一瞬分からなかった。が、次の瞬間、トリムを上げ、後部デッキに膝をついているホートンの姿を見て、異変に気付いた。マシントラブルだった。

 「エンジンが急に止まってしまった。イグニッションも回らない。ミドルチャネルのボートランプまで曳航してくれないか」。

 ホートンは努めて冷静さを保とうとしていたが、焦っていることは誰の目にも明らかだった。後部デッキには工具箱と予備のヒューズが散乱していた。それを見て、私もピンときた。

 実は初日にも、ホートンのエンジンは止まっていたのである。その時は幸いにも近くを釣っていた他のコンテンダーの助けを借りて、約30分ほどでスペアボートに乗り換えることができた。メカニッククルーはトラブルの原因を特定できず、新しいヒューズを取り付けるだけの応急措置しか行なわなかった。そのことと2日目の朝のトラブルが無関係でないことは明白だった。ホートンはやり場のない怒りをどうにか押さえ込み、トーナメントディレクターにスペアボートの手配を要請した。

 しかし、ボートランプヘの曳航に約1時間を要した上に、スペアボートが到着するまでさらに1時間を待たねばならなかった。ライブウェルがまったく空の状態で、ホートンは朝の貴重な2時間半を失ってしまったのである。

 ホートンの初日の成績は19位(14Lb10oz)。2日目の結果しだいでトップ10入りを充分にねらえる位置にいただけに、精神面での動揺が懸念された。



正統派ストラクチャーフィッシャーマン

 ホートンがセントクレアリバーで行なっていたのは、いわゆるドリフティングと呼ばれる釣り方である。ねらいたいスポットの上流から川の流れに乗せてボートをドリフトさせ、ドラッギング状態でスポットを探っていくというメソッドである。

 セントクレアリバーの場合、カレントの速さは見ため以上に速く、時速にして1.5~1.8kmほどある。つまり、300mのストレッチを約10分で流しきってしまう計算だ。

 ホートンは同じスポットを何度となく繰り返しドリフトして丁寧に探った。一度流し終えると、エンジンで再びスポットの上流へ移動して、同じライン(コース)をドラッギングするのである。

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ひと流し終えて再び上流へ移動。

 驚いたのは、ホートンが岸よりのファーストブレイクではなく、水深が25ft以上もあるような、チャネルの最深部に一番近いディープ寄りのストラクチャーを意識的にねらっていたことだった。セントクレアリバーや、その下流部のセントクレア・カットオフ、サウスチャネル、ミドルチャネルなどを釣るコンテンダーは決して少なくなかったが、その大部分はバンクのシャロー(水深3~4ft)とそれに続く10ftまでのドロップオフを釣っていた。ホートンのように約1kmほどもある川幅の真ん中で、チャネルマーカーのすぐ横をドリフティングしているボートは皆無といってよかった。

 私は過去にホートンと同船したこともあったし、別のボートから彼の釣りを観察したこともあったが、考えてみると、それらはいつもシャローを釣っている時だった(春のサイトフィッシングなど)。今回、セントクレアリバーでの彼の釣りを間近に見て、ティム・ホートンというコンペティターが評判通りのストラクチャーフィッシャーマンであることを再認識させられた。

  「魚がシャロー志向になる春とか、増水時とか、どうしてもシャローを打つ必要がある時は別だけど、それ以外は基本的にストラクチャーの釣りを戦略の中心に置くことが多い。おそらく、これはフィッシングガイドをしていたからだと思う。フリッピングとかスピナーベイトといったシャロー力バーをねらうタイプの釣りはガイドトリップには向かないんだ。技術力というのは客によって違うからね。全員が正確なキャストをできるとは限らない。その点、ディープストラクチャーの釣りは、ガイドが正確にボートをポジショニングすれば、たとえ初心者でも魚を釣ることができる。いつの間にか、ストラクチャーフィッシングのスタイルが身に付いてしまったんだろう」。

 しかし、そうした目に見えない何かをねらうホートンのフィッシングスタイルは、明らかに彼の持ち味となっている。素晴らしいのは、シャローフィッシャーマンとしての実力もしっかり兼ね備えているという点である。

 しかも、同じストラクチャーフィッシャーマンの代表であるデビッド・フリッツのように、ひとつの釣り方(たとえばディープクランキンとか)に専門化しているわけではないので、季節やフィールド、あるいはコンディションによるムラがない。極めてバーサタイルなのである。その意味で、ホートンはマーク・デイビスとよく似ている。デイビスがやはりそうであるように、ホートンもまた、いつアングラー・オブ・ザ・イヤーを獲っても不思議ではない希有な才能と言えるだろう。



2日めの悪夢について

 2日目のメカニカルトラブルの後、ホートンはやはりいつもの落ち着きを失ってしまったようだった。もっとも、あのようなアクシデントの直後に冷静さを保てというほうが土台無理な話なのだが……。

 「あの後は精神的に完全に崩れてしまった。リラックスしようとしてもできなかったし……。失った2時間半の遅れを挽回しようと思うと焦りが出てきて、早く5尾釣らなければという思考パターンに陥ってしまったんだ。焦れば焦るほど、魚は釣れなくなってしまう。初日とまったく同じスポットを釣っているのにもかかわらず、コンディションが悪くなっているわけではないのにもかかわらず、どんどんバイトが遠ざかっていく。最悪の展開だよ」。

 結局、ホートンが2日目のウェイインに持ち込むことができたのは9Lb10oz(約4,366 g)だけだった。順位は一気に43位まで落ちてしまった。

 9Lb10ozというウエイトに関して言えば、本来なら15Lb以上のウェイトをねらえただけに残念と言う他ないが、ポジティブに考えるなら、あの事件の後でよくリミットを揃えることができたとも言える。3日目の巻き返しにつなげるという意味では、最低限必要なウエイトは確保したといったところ。最悪のシナリオはなんとか避けることができた。



猛チャージを見せた3日目
8/24, Day 3
この日、ホートンは猛チャージを見せた。
16Lb2ozをキャッチしてトータルウエイトを40Lb6ozとしたのだ。
その結果、最終成績は22位。
あと2Lb9ozあれば、決勝進出を果たすことができるウエイトだった。


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川の中央に近いディープを釣るホートンの真横を外洋クラスの大型タンカーが通過する。
photo by OGA

 悪夢から一夜明けた3日目、ホートンは猛チャージを見せた。実に朝の約3時間で早くも推定15Lbのリミットをライブウェルに入れていたのである。同船していたアマチュアに至っては、ホートンを超える推定17Lbをキャッチしてさえいた。もちろん、エリアやパターンを変えたわけではなかった。初日、2日目と同様に、セントクレアリバーの中流域のディープストラクチャーを、ドリフティングによるチューブジグのドラッギングパターンで攻めていたのだ。

 しかし、コンディションはたしかに変わっていた。だが、ホートンがねらっていた魚に関しては、それらの変化が大きな影響を及ぼしているとは考えにくかったことも事実である。

 ホートンが釣っていたのは、時速約1.5kmの強力なカレントで水が流れている大きな河川であり、しかも、その中の水深25ft以上という極めてディーブなボトムストラクチャーがターゲットである。風向きによるカレントの強弱はメインレイクやマウス部分ほど大きなファクターとはなりえないし、天候の影響もシャローよりは少ない。そして、ホートンがねらっていた魚は、まだフォールパターンに移行しきっていないディーブのビッグフィッシュである。したがって試合初日から3日目まで、条件的な変化はほとんどなかったはずなのである。

 それでは、3日目の快進撃の理由はいったい何だったのだろうか。

 意外な感じもするが、最大の理由はモーニングバイトをきっちりと穫ることができたという点にあった。

 「ここだけに限ったことじゃないけど、特にクリアウォーターでは、空が一気に明るくなる時間帯というのは、たしかに食いが立つ。バスの餌となる小魚や小さな生物たちが、まだ活発に活動している時間だからね。特に大きな魚というのは、その時間帯をねらって集中的に捕食活動を行なっているように思える」。

 そう考えると、2日目のメカニカルトラブルは二重の意味でその日の釣果に影響を与えたのだと言えるだろう。ひとつはホートンの精神面に与える影響、そして、もうひとつは朝の貴重な時間帯を失ってしまったというより直接的な影響である。モーニングバイトの重要さをホートン自身がよく知っているだけに、余計、精神面で崩れてしまったという側面もあったに違いない。いわゆる悪循環というやつだ。

 いすれにせよ、3日目のホートンは16Lb2oz(約7,314g)をウエイインする猛チャージによって、22位までジャンプアップすることに成功した。トータルウエイトは40Lb6oz(約18,314g)。10位のビル・ウィルコックスが42Lb15ozだったことを考えると、ホートンはわずか2Lb9ozの差でシングル入賞(決勝進出)を逃したことになる。

 仮に、この2Lb9ozという差を2日目のウエイト(9Lb10oz)に足してみると、12Lb3ozという数字になる。初日と3日目のウエイトがよかっただけに、あのトラブルがなければ………と思わざるをえない。

 「22位という成績は嬉しいよ」と、ホートンは苦笑いした。「トーナメントが始まる前はトップ10入りできるほどのパターンを自分が持っているとは思っていなかったけど、試合が進むにつれて、そのチャンスはあったんだなと実感したよ。もしも2日目のエンジントラブルがなければなんて言い訳するつもりはないけど、あの失われた2時間半があれば、少なくとも2Lbは追加できたんじゃないかと思う‥‥」。

 ホートンは「少なくとも2Lb」と控えめに語ったが、それが4Lbあるいは6Lbであった可能性は否定できない。初日の故障時に修理を完全に行なわなかったメカニックに対して腹立たしい気持ちを覚える。

 しかし、何はともあれ、22位という成績は決して悲観するべきものではない。来年のパスマスターズ・クラシック出場やアングラー・オブ・ザ・イヤー獲得に向けて、ホートンがいいスタートを切ったことは確かである。

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メインタックルは2セット。チューブジグ用のスピニング(シェークスピア7ftMH)とキャロライナリグ用のベイト(シェークスピア7ftMH)。ミディアムヘビークラスのスピニングロッドは日本ではまず見かけない代物。チューブジグとキャロライナリグの両方に、リバーサイドの4inチューブを使用。ジグヘッドの重さは1/4oz。
photo by OGA

DAY 3: 16Lb2oz 計40Lb6oz
最終順位22位
獲得賞金:3,500ドル




【あとがき】
 今あらためて記事を読み返すと、プロトーナメント運営組織としてのB.A.S.S.の質も、おそらくこの頃がピークだったんだなぁということが分かる。記事中にティム・ホートンがエンジントラブルで動けなくなり、スペアボートが届くまで2時間半も待たなければならなかったとあるが、現在のエリートシリーズの感覚で言うなら、「スペアボートがあるだけまだマシ」ということになる。これは冗談でもなんでもなくて、ここ数年のエリートシリーズでは、選手たちがトラブル時に乗り換えられる公式スペアボートは1艇も用意されていないのだ。

 実際、先日のエリート第5戦(2001年5月ジョージア州ウエストポイントレイク)でも、こんなことがあった。試合の2日目、私がカメラボートに乗り込んでメインレイクを移動していると、デビッド・ウォーカーが湖のド真ん中でエレキを踏んでいるのを見かけた。ハンプなどあるはずがないメインレイクチャネルで何をしているのだろうと不思議に思ったのだが、自分は他の選手を探していたこともあり、そのまま通り過ぎた。試合後に判明したのは、朝イチでエンジントラブルに見舞われたウォーカーが、スペアボートもない、メカニックも来てくれないという八方塞がりの中で、仕方なくエレキで動ける範囲で釣りを続けていたという事実だった。自分が湖上で見た光景は、メインレイクを何とかエレキだけで対岸に渡ろうと試みていたウォーカーの姿だったのである。

 修理という選択肢はなかったのか?と疑問に思うかもしれないが、エンジンを修理するには近くのボートランプからボートを上げて、ウエイイン会場のサービスヤードに戻る必要があると言われたらしく、となると、すでに釣っていたライブウェルの中の魚を逃がさなければならない。そもそも、ウォーカーはレンジャー&エビンルードというB.A.S.S.との縁が切れているボートに乗っているため、サービスヤードには肝心のメカニックもいない状況。他メーカーのメカニックにしてみると、わざわざ湖上まで駆けつけて全力で修理しなければならない義務はたしかになかった。

 しかし、これがはたしてアメリカで最高峰とされるプロシリーズのあるべき姿なのかと問えば、答えはもちろんノーだろう。B.A.S.S.の求心力の低下はいよいよ深刻な状況になっているように見える。ESPNの手を離れ、新体制となった新生B.A.S.S.がかつての輝きを再び取り戻せるのかどうか。まずはもうすぐ発表されるであろう来期のニュースに注目したい。

 さて、本稿を含め最近アップした計3本の記事が、2001年8月のツアー第1戦(セントクレア戦)のレポートすべてということになるが、実を言うと、もう1本まだどこにも発表していない「レポート」が存在する。それはこの取材時にメモ代わりとして自分が撮影していたビデオで、当時立ち上げを考えていたウェブサイトでの動画配信用にテストとして制作したもの。編集も終えていたのだが、ウェブサイトを立ち上げるという企画自体が以前書いたようにポシャってしまったため、このビデオもお蔵入りになっていた。次回の更新では、このビデオを紹介したいと思う。

01年12月号:桐山孝太郎@ツアー2001-02第1戦

【まえがき】
 桐山孝太郎は98年からウエスタン・インビテーショナルに参戦し始め、2000年のシカゴでのクラシックに初出場。同年8月からトップ150シリーズに参戦。2年目の開幕戦となる2001年8月のレイクセントクレア戦で、プロシリーズ初のトップ10フィニッシュを決めた。

 本稿はその2001年8月のレイクセントクレア戦をレポートした前回の記事「01年12月号:ツアー2001-02第1戦レイクセントクレア」の第二部であり、桐山選手をフィーチャーしている。プロシリーズにおける日本人選手の決勝進出は当時まだ珍しく、本編とは別枠を取って紹介した。



桐山孝太郎
バスマスターツアー初のトップ10入り!

バスマスターツアー(旧トップ150)参戦2シーズン目を迎えた桐山孝太郎がついに自己初となる決勝進出(トップ10入り)を果たした。
桐山はこれまでウエスタン・インビーショナルなど西部地区のトーナメントを中心に上位入賞を果たしてきたが、ナショナルレベルのプロたちがしのぎを削るバスマスターツアーでの決勝進出は今回が初めて。
今後の試合における活躍にも期待が集まる。

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photo by OGA



「片道3時間もかかってしまった」という桐山の戦略とは・・・

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2日目のウェイインで、桐山は思わず拳を突き上げた。19Lbジャストのリミットはこの日のトップウェイト。
photo by OGA

 「行くしかないでしょう」。

 3日目を7位で終え、バスマスターツアーにおける初の決勝進出を決めた桐山は、早くも翌日のプランについて思いを巡らせていた。〈行くしかない〉場所。それはもちろんエリー湖のことだった。

  「でも北風だったら、エリーの入り口がよくなるから、遠く行かないで、そっちでやろうかなと思って」。

  決勝の戦い方について冷静に状況を分析する桐山を見ていると、初めてトップ10入りを果たしたアングラーだとはとても信じられなかった。緊張している様子は微塵も感じられず、それどころか、トップ10に入ったことを颯々と楽しんでいるようにも見えた。しかし、決勝進出を決めるまでの3日間は、桐山にとって決して楽な道程ではなかった。

  桐山はエリー湖に2ヵ所のエリアを持っていた。ひとつはショアラインから数マイル離れた湖の沖に位置する島周り。もうひとつはデトロイトリバーがエリー湖に流れ込むマウス部分である。

  そのうち、沖の島周りは判断の難しいエリアだった。そこではごく短時間で20Lbのビッグリミットを揃えることさえ夢ではなかったが、もしも湖が荒れた場合には、そこに辿り着くこと自体が困難になるはずであり、最悪の場合、漂流や遭難といったアクシデントも考えられた。また、たとえデッドカームの時でも、往復の移動には3時間半をみておく必要があった。もちろん、多少でも湖が荒れれば、移動時間はさらに増大していく。

  もうひとつのエリアであるデトロイトリバーのマウスについては、少なくとも移動に関する心配はなかったが、肝心のウェイトはそれほど期待できず1日15Lbがマックスだった。万一、試合が1日18Lb前後のヘビーウエイト戦になった場合には、上位入賞のチャンスは確実に遠ざかるはずだった。そこで桐山は、とりあえずマウスエリアを基本戦略に据えた上で、天候の隙に乗じて沖の島周りまで走り、プラスアルファのウエイトアップを計るという戦略をとることにした。

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決勝では、タフコンディションに合わせてドロップショットリグを主体に使用した。ドロップショット(ダウンショット)リグでメインに使用したベイトは、ロボの4inシェイカーとレイクポリスのクロステールシャッドの2つ。

 8Lb11oz(3尾)、93位タイという平凡な結果で終わった初日は、朝から吹き荒れた強い南風が桐山の行く手を阻んだ。沖の島周りに行けないことは朝の時点で明らかだったが、マウスエリアで必要以上に無駄な時間を過ごしてしまったのも事実だった。南風が吹いた結果、デトロイトリバーから流れ込むカレントが止まってしまい、本来付くはずのスポットからスモールマウスが動いてしまったのである。

 初日を93位で終わり、後がなくなった桐山は、2日目、大きな賭けに出た。思い切って沖の島周りへ向かい、初日の遅れを一気に挽回しようと考えたのである。だが、2日目もまたエリー湖は荒れていた。この日、セントクレア方面では風はほとんど吹いていなかったが、約70km南に位置するエリー湖はまったく別の世界になっていたようである。依然として南風が吹くエリー湖は、はるか沖から次々に押し寄せる巨大なウネリによって、海のような激しさを見せていた。

 しかし、桐山としては、だからといって諦めるわけにはいかなかった。南風が吹いている以上、どっちみちマウスエリアには期待できないことを初日の結果が教えていた。ウネリを越えて沖を目指すしか、ビッグウエイトをねらえる方法はなかった。

 「結局、行きだけで3時間もかかっちゃった(笑)。そのうち、エリーに入ってからたった数マイル進むのに2時間以上。アマチュアは完全に怯えてましたョ。申し訳ないと思ったけど、仕方ないなと」。

 しかし、その勇気と苦労は報われた。実際に釣りをしたのは2時間程度にすぎなかったが、キャッチしたリミットは2日目のヘビエストウエイトとなる19Lbに及んだ。これによって桐山は一気に22位まで急浮上し、トップ10入りの足がかりをつかむことに成功したのである。

 2日目の朝、あの状況下であえてエリー湖の沖を目指した桐山の決断力は、コンペティターの資質とは何なのかを明確に示唆しているように思えてならない。どうも今後の桐山の戦いぶりから目が離せなくなりそうだ。

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決勝ではリミットを達成することができず、順位を落として9位を最終成績とした。桐山にとってはバスマスターツアーにおける初のシングルである。
photo by OGA

DAY 1:93位 8Lb11oz(3尾)
DAY 2:22位 19Lb0oz(5尾) 計27Lb11oz
DAY 3:7位 15Lb9oz(5尾) 計43Lb4oz
DAY 4:9位 11Lb10oz(4尾) 計54Lb14oz
獲得賞金 $7,000




【あとがき】

 決勝の日、自分は桐山選手のスキーターに乗り込んだ。B.A.S.S.を買収したばかりのESPNは試合現場での番組収録がまだ今ほど本格的ではなかったため、決勝日に同船取材する選手をほぼ自由に選ぶことができたのだ。このあたりの背景については、おそらく次回の記事のあとがきでまとめて書くことになると思うが、とにかく、この2001年8月の段階では、決勝の日にファイナリストと同船取材するという選択肢がまだ存在していたわけである。

 本文中にも書かれている通り、桐山選手はエリー湖にエリアを持っていた。決勝の日も、朝イチからエリー湖を目指したのだが、この時のスタート後の「走り」がなかなか凄かった。

 決勝に残った10人のうち、バンダムやゲーリー・クライン、スコット・ルークらもエリー湖にエリアを持っていたが、他にもトム・バーンズとビル・ウィルコックスの二人がデトロイトリバーを釣っていたため、スタート後、実に計6艇が南へ向けてプレーニングに入った。結構な北風と白波。セントクレア北西岸のスタート地点から南(デトロイトリバー方向)へ向かうには、高い追い波を越えていかなければならなかったが、そこに抜きつ抜かれつのデッドヒートが加わった。バンダムとクラインはプロの中でも操船の荒さで知られているのだが、桐山のそれもまた負けておらず、後ろから強引に追い抜きを掛けてきたバンダムを指差し、「コイツら、狂ってるネ!」と叫びながら、そのバンダムを抜き返そうとさえした。なにしろ、ただでさえ白波立つ追い波の中を進んで行かねばならないのに、船団の後方に回るほど他船の引き波まで加わり、まともに走れなくなるのだ。桐山選手の負けん気の強さを自分はその時初めて知った。

 日本人アングラーがアメリカのプロシリーズで戦い抜くために必要な条件のひとつこそ、「負けん気の強さ」だと自分は思っている。アメリカという異国で、選手はおろかスタッフもスポンサー関係者もほぼ全員が白人という世界で、マネージャーやコーチの助けもなく、たったひとりで戦わなければならないのである。精神的なタフさが何にも増して重要な資質であることは疑問を差し挟む余地もない。

 去る4月下旬にアメリカ南部を襲った竜巻群による被害の様子はおそらくご覧になった方も多いだろう。実はアラバマ州バーミンガム近郊にある桐山選手の自宅も竜巻のため屋根が飛んでしまったそうだ。付近には基礎しか残っていない家も多かったらしい。それだけでもたいへんな災難であるわけだが、その前週にはなんと路上で追突事故に遭ったという。しかも、追突して来た車のドライバーは無保険だったらしく、治療や車の修理には自分の保険を使わなければならなかった。桐山選手はそんな自身の不運続きを「前厄でコレってことは、本厄はどうなんの?」と笑い飛ばしていたが、恐ろしくタフなメンタルを持つ桐山選手のこと、きっと乗り越えるだろうと確信している。

01年12月号:ツアー2001-02第1戦レイクセントクレア

【まえがき】
 今回の『Basser』過去記事アーカイブは、2001年12月号(No.120)に掲載したB.A.S.S.ツアー2001-2002シーズン第1戦のレポート。スモールマウスレイクとして知られるミシガン州レイク・セントクレアを舞台に、晩夏の8月下旬に開催された試合である。そう、この頃はまだクラシックが夏の開催で、シーズン開幕がその後の8月下旬からというスケジュールだったのだ。

 2001年というと、ESPNによるB.A.S.S.買収が正式に成立したのが同年4月。すなわち、この2001年8月のセントクレア戦は、ESPNによる新体制の下でシーズンインを迎えた初めてのプロシリーズという意味合いがあった。実際、この年の5月まで「トップ150」と呼ばれていたプロシリーズは、8月の新シーズンから「ツアー」と改称され、ESPN主導によるB.A.S.S.の本格的な改造計画がスタートしたのである。

 あれからちょうど10年・・・。

 そのESPNは溜め込んだ赤字に耐えきれずついにB.A.S.S.を手放し、一方、再び独立企業体として再出発することになったB.A.S.S.は新たな経営陣の下で次に進むべき道を模索中である・・・。

 そんな今(2011年の5月下旬)、あらためて10年前の試合レポートを振り返ってみると、実にいろいろなことが見えてくる。まずは記事を読んでいただき、その後で解説を加えてみたい。

 なお、本稿は計28ページに渡る大作のためw

本編16ページ
桐山孝太郎編4ページ
ティム・ホートン編8ページ


の3部に分けてアップする。今日はまず、本編の16ページ分を掲載しよう。



バスマスターツアー2001-2002第1戦
ミシガン州レイクセントクレア
2001年8月22日~25日

「デイビー・ハイト 最終日の大逆転劇」
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photo by OGA

バスマスターズクラシックの余韻に浸る間もなく、B.A.S.S.の2001-2002シーズンが始まった。
米国スポーツTVネットワークESPN主導による新体制の下、「トップ150」は「バスマスターツアー」として生まれ変わり、その第1戦がミシガン州レイクセントクレアで開催された。
新しいシーズンの幕開けを飾り、優勝賞金11万ドル(約13,200,000円)を手にしたのは、決勝で大逆転に成功したデイビー・ハイトだった・・・。
今期もまた現地完全生取材で本場の迫力をお届けしよう。



トーナメントウォーター「レイクセントクレア」を分析する
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レイク・セントクレアとレイクエリー西域。2つを結ぶのはデトロイトリバー。

 夏のレイク・セントクレア戦はバスマスター、FLWを通じてここ数年の定番となっており、2年に1度のペースで6月から8月にかけて両方のトーナメントが決まって開催されている。ざっと過去の試合を振り返ってみよう。

 セントクレアにおける最初のブロトーナメントは1994年8月のトップ100戦であったが、この時は地元ミシガン州在住のキム・ストリッカーが61Lb15oz(約28,094g、4日間)で優勝している。その後、4年間のブランクを経て、1999年の夏にはFLWとトップ150の2試合が開催されており、6月のFLWをフロリダのピーター・スリベロスが、8月のトップ150をラリー・ニクソンがそれぞれ優勝している。

 面白いのは、6月のFLW戦の際、2位から4位までがすべて地元であるミシガン州出身のブロで独占されたことである。ちなみに、そのうちの2位はケビン・バンダム(ミシガン州出身)。3位はアート・ファーガソン(ミシガン州出身で、セントクレアでガイドもしている)である。ほぼスモールマウスしかいない上に、水質がとびきりのクリアウォーターというある意味で特殊なフィールドであるため、地元出身者ならではの情報力と慣れが有利に働いたわけである。といっても、結局、優勝したのはフロリダのスリベロスであり、2位のバンダムにしても、3位のファーガソンにしても、ただ単に地元の利点があったことだけが上位入賞の理由ではないのは言うまでもない。

 それは、セントクレア戦におけるラリ一・ニクソン(アーカンソー州出身)の圧倒的な強さという事実によっても証明することができるかもしれない。ニクソンが1999年8月のトップ150戦で優勝していることはすでに触れたが、実は、それに先立つ6月のFLW戦では5位に入っており、さらには、今年(2001年)6月のFLW戦においても優勝を決めているのである。すなわち、セントクレアで開催された過去4回のトーナメントのうち、2回を優勝、1回を5位入賞でフィニッシュしているわけである。この強さは尋常ではない。

 しかも、さらに細かく調べていくと、2回の優勝はそれぞれまったく別の場所をメインエリアとする戦略によって勝ち獲ったものであることに驚かされる。

 1999年のトップ150で優勝した際のメインエリアは、セントクレア本湖を縦断する大型貨物船用航路(セントクレア・カットオフと呼ばれる)のディープドロップオフで、湖の南部に位置していたのだが、2001年のFLW戦で優勝した際のメインエリアは湖の北部に位置するセントクレアリバーのチャネル沖だった。このことが何を意味しているかというと、ニクソンは常に魚が沸いているようなハ二ースポット(もしそのような場所があるとして)に頼った釣りをしているのではなく、各試合ごとにしっかり魚を見つけているということである。当たり前と言えば当たり前のことだが、その誰もが行なっている当たり前のことをしながらこれだけの成績を残しているのだから、やはりラリー・ニクソンの強さは尋常ではない。

 今回のセントクレア戦を取材するにあたり、私は当然ながらニクソンに注目していた。もしやセントクレア戦3度目の優勝というシナリオもありえるのではないかとも考えていたくらいだ。そして、結果は予想通りのものとなった。ニクソンは安定したウエイトを持ち込み続け、3日目にはトーナメントリーダーとなり、優勝にリーチを掛けた状態で決勝に臨んだ。しかし、決勝で待っていたのはまさかの逆転劇。優勝はダークホース的な存在だったデイビー・ハイトが勝ち取った。だが、あわや優勝というニクソンの活躍はセントクレアにおける圧倒的な強さを印象づけるのには充分すぎるほどのものだったと言えるだろう。

 そして、他にも、ケビン・バンダムやピーター・スリベロス、キム・ストリッカーなど、上位陣には下馬評通りのプロの名が連なった。ある意味で、これまでに行なわれたセントクレアでのトーナメントの総決算のような試合だったと言える。

 それでは早速、初日から順に試合の模様を追っていこう。



DAY 1
初日のトップウエイトはケニヨン・ヒル19Lb1oz。
1日15Lb平均が決勝進出の必要条件に!

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初日、ケニヨン・ヒルが持ち込んだブロンズ色のリミット19Lb1oz(約8,647g)はセントクレアというフィールドが持つポテンシャルを証明するビッグウエイトたった。
photo by OGA

 初日は低気圧の接近に伴い、時速20マイル以上の強い南風が吹いた(アメリカでは風力を秒速ではなく、時速で表す。時速20マイルはおよそ秒速9m)。セントクレアのような円形をした平地の巨大湖の場合、どの方角から風が吹いても、ショアライン以外に風裏というものは存在しない。したがって、ひとたび風が吹くと、風向きに関係なく、湖上はどこも荒れてしまう。しかし、ことセントクレアに関して言えば、風が吹いた場合に多くのプロたちが気を揉むのはむしろ、ラフウォーターそのものが及ぼす移動時間の増大や釣りにくさといった2次的な影響ではなく、動きの速いスモールマウスの行動に直接関係してくる風向きのほうである。

 湖を縦断するディープチャネルを除けば、レイク・セントクレアの大部分は17ft程度の水深しかない。その巨大フラットウォーターとも見れる各所に無数のハンプやシャローフラット、あるいはそれに続くドロップオフといった何らかのボトムストラクチャーが散らばっており、スモールマウスはこうしたストラクチャーと常に関係しながら行動し、風向きによって変動する潮流に対応して実に素早くポジショニングを変えていく。動きの速さでは定評のあるスモールマウスだが、ここセントクレアでは、風の影響を受けやすいフラットウォーターが大部分を占めるだけに、よりディープでストラクチャーの変化に富んだリザーバーなどよりも、風向きが及ぼす影響は比較にならないほど大きいのである。

 この点において、南風というのは最悪の風向きと言ってよかった。というのも、上流にあたるヒューロン湖からのカレントは湖の北東端に位置するセントクレアリバーから流れ込み、南西端のデドロイトリバーヘと流れ出している。湖流はこの北東からの強力なカレントと常に連動しているのである。したがって、南から強い風が吹くと、大部分のエリアでこのカレントが弱められるか、あるいは場所によっては完全に止まってしまう。その時にスモールマウスがどう反応するのか。コンテンダーたちにとっては、それが最大の懸案になる。

 初日に19Lb1oz(約8,647g)というスーパーウエイト(信じがたいことだが、5尾ともすべてスモールマウスである。この湖ではラージマウスよりスモールマウスのほうが平均個体重量が重いのだ)を叩き出してトーナメントリーダーとなったケニヨン・ヒル(オクラホマ州出身)は、この日の南風を最も巧くかわし、味方につけたコンテンダーだったと言えるだろう。ヒルの戦略はウイードの点在する水深4~5ftのシャローフラットをスピナーベイトのバーニングメソッド(速引き)で広くカバーしていくというオーソドックスなものだった。同じパターンは他にも多くのコンテンダーたちが行なっていたはずである。では、なぜヒルだけが爆発的なウエイトを持ち帰ることに成功したのか。その秘密はどうやらヒルが釣っていたエリアにあったようだ。

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レイク・セントクレア北部。サウスチャネルから南西に走る線はカナダとの国境だ。

 ヒルのエリアは、湖の北端部、ミドルチャネルのマウス一帯に広がる広大なシャローフラットだった。ヒューロン湖からのカレントを運ぶセントクレアリバーは湖に流れ込む直前で4本の独立したチャネルに枝分かれする。それらのうち、中央を流れているのがミドルチャネルで、北側にはノースチャネルが、南側にはサウスチャネルが並ぶ(サウスチャネルのすぐ南隣には大型船舶用の人工チャネル「セントクレア・カットオフ」が併走する)。

 ヒルが釣ったミドルチャネル沖のシャローフラットは、サウスチャネルのマウス沖に伸びたシーウェイ島によって南側が閉ざされた格好になっており、試合当日は南の風が完全にブロックされていた。すなわち、そのエリアだけがまったくのウインドプロテクトとなり、セントクレアリバーから流れ込むカレントが弱まることなく供給されたのである。

 本来、枝分かれした4本のチャネルのうち、最もカレントが強いのは一番南側を走るセントクレア・カットオフとその北を流れるサウスチャネルなのだが、これらは強い南風をまともに受けてしまうため、カレントが相殺されてしまった。はっきりと断定することはできないが、カットオフ周辺域のカレントが急激に弱まった結果、それを嫌ったスモールマウスのスクールが、唯一力強いカレントを供給していたミドルチャネル周辺に集結したという見方も可能だろう。スモールマウスはそれだけの足の速さを持った魚だと思う。

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過去のセントクレア戦で優勝実績のある2人は、ラリー・ニクソン18位(写真左)、キム・ストリッカー8位(写真右)と下馬評通りの好調なスタートを切った。ニクソンのエリアは不明だったが、ストリッカーは彼のウイニングエリアでもあるセントクレアリバー内で目撃した。
photo by OGA

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DAY 2
スモールマウスを得意とするチップ・ハリソンが1位に急浮上!
3位にはラリー・ニクソンが・・・。

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2日目のリーダーは17Lb14oz(約8,108g)を追加して初日の9位(15Lb13oz)から浮上したインディアナ州出身のチップ・ハリソン。
photo by OGA

 2日目は一転して風が弱まり、風向きも北に変わった(一方、70km以上南に位置するエリー湖方面では、朝のうちは依然として強い南風が吹いていたという報告がある)。天候は曇りで、午後に入ってから晴れ始め、それと同時に風も完全に収まった。初日に比べてコンディションがぐっと安定したことによって、2日目はリミット達成率が上昇し、平均ウエイトも幾分上がった。湖流を相殺する南風という要素が消えたために、本来のカレントが湖に戻ったものと考えられる。

 しかし、この日、一気に順位を上げてきたのは、セントクレアを釣っていたコンテンダーたちではなく、はるか南のビッグレイク、エリー湖までロングドライブを試みたコンテンダーたちだった。

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 たとえば、初日の16Lb10oz(約7,541g)に続いて、この日16Lb5oz(約7,399g)と安定したウエイトをキャッチし、5位から2位に浮上したスコット・ルーク。彼はウエイイン後のインタビューで2日間ともエリー湖で過ごしたことを隠さずに教えてくれたが、エリー湖にある自分のスポットまで辿り着くのに両日とも2時間以上を要したとも語っていた。

 「エリーのスポットまでは55マイル(約88km)の距離なんだけど、昨日や今日の朝みたいに7ttクラスのウネリがあると、移動に掛かる時間は倍どころじゃきかない。その分だけ釣りをできる時間が減るからね。明日はまた風が吹くみたいだけど、なんとかリミットを揃えるのに充分な時間が残るように祈るだけだよ」。

 初日の22位(13Lb14oz)から4位へと一気にジャンプアップしたケビン・ワースもまたエリー湖にエリアを絞り込んでいたコンテンダーのひとりである。ケンタッキー州出身でスモールマウスの釣りを得意とするワースは、2年前に比べてフィッシングプレッシャーが高まっていると同時に、プロたちによるエリアの解析が進んでいるセントクレア本湖を見切り、移動時間などのリスクを承知であえてエリー湖での勝負に賭けたようだ。ワースが2日目に持ち込んだ18Lb4oz(約8,278g)のリミットはもちろんすべてスモールマウスであり、徹底したディープストラクチャーねらいのパターンでキャッチしたということだった。

 この他にも、2日目の段階では明かしていなかったものの、7位のゲーリー・クラインや8位に急浮上してきたケビン・バンダムなども、実はエリー湖を釣っていたことが後の話から判明している。

 このように遠く離れたエリー湖(スタート地点のメトロビーチ州立公園からセントクレアの南端までが約40km、セントクレアとエリー湖を結ぶデトロイトリバーの全長が約27km)をあえてメインエリアとするコンテンダーが増え、しかも彼らが上位に進出した背景には、ケビン・ワースが語ったように、2年前の試合と比べて格段にセントクレアのフィッシングプレッシャーが高まっていることが挙げられる。フィッシングプレッシャーが高まったことによって、勝負のカギを握る4Lbクラスをキャッチできる確率が下がってしまい、勝ちを意識すればするほど、プレッシャーの低いエリー湖でビッグフィッシュに的を絞った戦略を選ぶ必要がでてきたのである。

 だが、これは今回のようなスモールマウスがメインとなる試合ならではの特殊な例だと言えるだろう。6Lb以上の個体数が絶対的に少ないスモールマウスの場合、ラージマウスをターゲットにする試合のように、1日だけのビッグリミットで逃げ切ったり、あるいは逆転したりという展開はまずありえない。したがって、スモールマウスしかねらえないフィールドでの試合では、それなりの個体数が見込める3~4Lbクラス(スモールマウスとしてはビッグフィッシュに当たるサイズ)で毎日リミットを揃えるという展開が最強ということになる。つまり、言い換えれば、そのクラスの魚がプレッシャーなどの理由で釣りにくくなっているエリアでは、試合に勝つことは難しいのである。

 そして、2日目にその最強の展開を成功させたのは、なんと桐山孝太郎だった。詳しくは後のページで紹介しよう。

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写真左から2位のスコット・ルーク、3位のラリー・ニクソン、4位のケビン・ワース。驚くべきことに、ニクソンがまたしても上位に進出してきた。まさかのセントクレア戦3勝というシナリオが一気に現実味を帯びてきた。ニクソンがどのエリアにいるのか、2日目の段階では不明だったが、過去の優勝エリアでないことだけは確かだった。
photo by OGA



2日目のリーダー、チップ・ハリソンをミドルチャネルに発見。

 初日15Lb13oz(約7,172g)、2日目17Lb14oz(約8,108g)と安定したビッグウエイトをキャッチし続けたチップ・ハリソンは、2位に12oz差をつけて2日目のトーナメントリーダーになった、ハリソンはインディアナ州出身のアングラーであることから、セントクレアのようなクリアレイクでのスモールマウスの釣りをそもそも得意としていたが、プラクティス中の釣果は意外にも悲惨なものだった。

 「3日間で6尾しか釣れなかったんだ」。ハリソンは自嘲気味に笑った。「ところが、プラクティス最終日の午後に入ってから、あるエリアを見つけた。スピナーベイトですぐに2Lb半が食ってきて、続けて4Lbクラスをキャッチした。で、それ以上叩かずに翌日の試合のためにセーブした。もちろん、初日は朝からそこへ直行したよ」。

 その結果が初日の15Lb13ozだった。驚いたことに、ハリソンは朝の小1時間で早くもそのウエイトをキャッチしていた。

 「ファーストキャストで5尾くらいの4パウンダーがチェイスしてくるのが見えたんだ」と、ハリソン。最高のスタートを切ったハリソンはその後、翌日以降に備えて一帯をプラクティスしたという。

 「なんせ、その1ヵ所しか持っていなかったからね。ちょっと不安だった」。

 しかし、2日目は初日を上回る17Lb14ozというビッグウエイトを追加した。試合中にねらいうる最大限のビッグフィッシュ(3~4Lb)でリミットを揃えるというスモールマウスの必勝法を、ハリソンはまさしく実践していたわけである。

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注)バックシートのアマチュアアングラー(コ・アングラー)がネットでランディングを手伝う光景というのも、当時ならでは。1999~2002年はB.A.S.S.の歴史の中で例外的にネットの使用が認められた。

 ハリソンのエリアは湖から数マイル上流へ遡ったミドルチャネル内にあった。チャネルの水深は30ftほどあり、ショアラインから30mほどのあたりで急なドロップオフとなっている。その奥は水深3ftのシャローフラットである。シャローには白い砂底の上に所々ウイードパッチが点在しているのが遠くからでも確認できた。ハリソンはドロップオフのやや沖側にボートをポジショニングして、カレントに流されないようエレクトリックモーターをコントロールしながら、少しずつ上流に流していった。

 釣り方はシャローフラット上のウイードパッチをスビナーベイト(ニコルズ・44マグナム3/4oz。カラーはブレードを含めてチャートリュース)とポッパー(レーベル・ホップR)でねらうというものだったが、他にも、セントクレアの定番であるチューブジグ(チューブのジグヘッドリグ。ハリソンが使用していたのはニコルズ・ソルティーマザーチューブ3.5in。カラーはグリー
ンパンプキンwithゴールドフレーク)でドロップエッジ(水深3ftから9ftにかけて)を探るというフィネスも同時進行していった。このあたりの器用さに、スモールマウス慣れした巧さが感じられる。

 「風向きによってカレントの強さに多少の違いが出だのは確かだけど、相当な数の魚が集まっていたんだと思う。リミットを揃えるのに苦労はしなかったよ」。

 おそらく、釣っていたのが南風の影響をほとんど受けないミドルチャネルであったというのも成功の理由のひとつだったに違いない。というのも、セントクレア・カットオフやサウスチャネルでまったく同じパターンを行なっていたコンテンダーたち(ジェイ・イエラスやキム・ストリッカーなど多数)は、ハリソンが体験したような、4Lbクラスが群れでチェイスしてくるよ
うな場面には遭遇していないし、実際の釣果もハリソンほど決定的なものではなかったからである。

 「明日(3日目)も5尾釣る自信はある。プラクティスの時点では、まさか自分がトーナメントをリードすることになるとは思ってもみなかったけどね。今はかなりの自信を持っているよ」。



DAY 3
またしてもラリー・ニクソンが!
はたしてセントクレア戦を再び征するのか!

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ラリー・ニクソンの活躍は2年前のトップ150戦を思い起こさせるものだった。
photo by OGA

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 3日目を終えてリーダーの座についたのはなんとラリー・ニクソンだった。この日、持ち込んだウエイトは17Lb8oz(約7,938g)。ニクソンは初日を14Lb11oz(約6,662g)でスタートしていたが、2日目に17Lb14oz(約8,108g)とウエイトを上げ、3位の位置につけていた。3日目のウエイトは、その勢いに拍車をかけたと言っていいだろう。これによって、3日間のトータルは50Lb1oz(約22,708g)となり、2位との間には1Lb6ozの差が開く結果となった。1Lb6ozの差は決して大差とは言えなかったが、何はともあれ、ニクソンはセントクレア戦3勝という脅威の領域を目指して決勝に進出することになった。

 「昨日(2日目)までは正直言って自信がなかったんだ。今回のエリアは今までに釣ったことがない場所だし、エリアの特性上、安定した結果を期待することはできないって分かっていたからね。でも、今日の釣りで自信が得られたよ。明日もやれる気がする。ただ、明日の決勝では18Lb持ってきたのでは足りないと思うね。誰かが20Lb釣ってきたら終わりだよ」。

 ニクソンはあえて名前を挙げなかったが、彼の言う「誰か」が2位に浮上したデイビー・ハイトであることは間違いなかった。私としても本当のところを言うと、3日目を終えるまで、ハイトはまったくのノーマークだった。2年前のバスマスターズクラシックを優勝して以来、ハイトはずっとスランプ状態が続いていた。まさかそのハイト(サウスキャロライナ州出身)が、しかもスモールマウスがターゲットとなるセントクレアで優勝に絡むアングラーになるとは思ってもいなかったのである。3日目の成績が出揃い、ハイトが今回の試合でビッグウェイトを誰よりも安定してウェイインし続けているという事実に気付き、1Lb6oz差でニクソンに迫っている現実を知った後でも、ハイトが優勝するシナリオはニクソンの自滅以外にはありえないだろうと考えていた。しかし、ハイト自身は逆転優勝を実現させる強いコンフィデンスを実は持っていたのである。

 「チャンスはあると思うんだ。試合が始まる前は、毎日リミットを揃えられるかどうかが何より気掛かりだった。見つけたエリアでクオリティーフィッシュをねらえることは分かっていたんだけど、はたして数が揃うのか心配だった。でも、蓋を開けてみたら、現にこうして3日間リミットを揃えている。だから、明日(決勝)も5尾釣ることができれば、優勝するチャンスはあると思っているよ」。

 ハイトのエリアは国境を越えたカナダ内にあるようだった。詳しいパターンの内容はまだ明かされなかったが、シャローをスピナーベイトとソフトジャークベイト中心で釣っているとだけ教えてくれた。

 3位のスポットにはエリー湖を釣っているスコット・ルークが入った。ルークはこの日、エンジントラブルで約半分の時間を失ってしまったが、トラブルに見舞われる前にキャッチしていた14Lb7oz(約6,549g)のリミットに救われ、前日から順位を1つ落としただけの軽傷で最終日に駒を進めることに成功した。

 4位に入ったのはやはりエリー湖を釣っているゲーリー・クラインだった。

 「この試合はニクソンが勝つだろうね。今の自分のウエイトから彼を抜くのは非常に難しい。今日自分が持ち込んだリミットに5パウンダーを2尾混ぜることができれば、可能性はあるけどね(笑)」。

 2日目のリーダー、チップ・ハリソンはこの日11Lb14oz(約5,386g)とウエイトを落とし、5位まで順位を下げた。

 「今日は1/2ozのジグヘッドがすぐに流されてしまうくらいカレントが強かった。北東風に変わったために、カレントに勢いがついたんだと思う。結局、あの場所でリミットを揃えることはできなかった。幸い、本湖に移動して別のパターンを見つけたんで、なんとか切り抜けることができた」。

 6位には、沖のハンプをクランクベイトで釣ったピーター・スリベロスが入ってきた。2年前のFLW戦を優勝しているだけに、納得の結果である。

 そして、7位には桐山孝太郎が入った。2日目のトップウエイトを叩き出した桐山はこの日、再びエリー湖へ走って15Lb9oz(約7,059g)を追加し、自己初となるバスマスターツアー(旧トップ150)での決勝進出を果たした。

 以下、8位は3日間ラージマウスだけをウエイインしたトム・バーンズ。9位はエリー湖を釣ったケビン・バンダム。10位はデトロイトリバー内を釣ったビル・ウィルコックスが入った。こうして決勝に進出した10名を顔ぶれをあらためて眺めると、下馬評に名前の挙がっていたプロが少なからず含まれていることに驚かされる。

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決勝に駒を進めた上位10名の顔ぶれ。桐山孝太郎の姿もある。
photo by OGA

 決勝日の予報は晴れ。時速20マイル近い東風が吹くとも予報されていた。まさかの大逆転劇が現実のものとなった決勝。ニクソンにいったい何が起きたのか……。



360度の水平線。
ラリー・ニクソンはメインレイクのド真ん中にいた。

 私がラリー・ニクソンの釣りを見たのは3日目だった。ニクソンがどこにいるのかは2日目を終えた段階では謎であり、3位に急浮上したニクソンをTVクルーが追いかける必要に迫られた3日目の朝になって初めて、その場所が明らかにされた。早速、情報を入手した私はプレスボートに乗り込み、ニクソンの航跡を追ったわけだが、そのエリアは実に予想だにしない、とんでもない場所にあった。

 360度の水平線に囲まれたレイク・セントクレアのほぼド真ん中。ショアラインの影はおろか、他のボートさえ見当たらないまったくの無名水域に、ラリー・ニクソンのストラトスは波に翻弄されながらボツリと浮いていた。

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目印となるものは何もない。約50m問隔で打った2湖のマーカーブイが頼りなげに浮いていた。

 魚探で調べても、特にストラクチャーがあるわけでもなく、水深17ftのフラットがどこまでも続いているように見える。ニクソンは3日目のインタビューのなかで、「今日になってようやくエリアに対する自信が得られた」と語ったが、たしかに、この漠然と広がるフラットウォーターに対して自信を持つには、それなりの時間が必要になるだろう。

 ニクソンが使っていたのはチューブジグだった。1/4ozヘッドをメインに、強風のコンディションでは3/4ozヘッドも使ったという。使い方はズル引きに不規則なホッピングを加えたもの。釣り方に特別な秘密があるわけではない。

 「たしかに、あそこはただの広大なフラットだよ(笑)。でも、ほんの一角だけイールグラスに似た細長いウイードが生えているんだ。密度がとても薄いし、100 m四方の狭い範囲だから、ちょっとソナーをかけただけでは気付かない。だけど、スモールマウスはそこに集まってくるんだ。プラクティスでは、もちろん、過去に実績のあった場所もチェックしてみた。でも、どこもプレッシャーで漬れてしまっていた。だから、とにかく新しい場所、まだ誰も知らない場所を見つけなくてはならなかった」。

 またしてもラリー・ニクソンの底力を思い知らされた………



FINAL DAY
デイビー・ハイト優勝!!
新しいシーズンの幕開けを飾ったのは、
1999年のクラシック優勝後、不調に喘いでいたデイビー・ハイトだった。

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photo by OGA

 最終日のウエイインステージヘ向かうニクソンの足取りは重かった。この日、例のフラットから魚の気配はすっかり消えていた。ネクストキャストに期待しながら時間が経過していくうちに戦略を変更するキッカケを失い、スモールフィッシュを3尾キャッチしただけでストップフィッシングの時刻を迎えてしまったのである。

 もともとここでのバイトが散発的だったことを考えると、たとえ2時間ノーバイトが続いたとしても、大きく戦略を変更する理由にはならない。なぜなら、次の1投で4Lbフィッシュがバイトする可能性を完全に否定することができないからである。しかし、何らかの要因によって足の速いスモールマウスがあのフラットから突然姿を消してしまうこともまた充分に起こりえる展開だった。

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3日目まで安定したウエイトを持ち込んでいただけに、ニクソンの失速に人々は目を疑った。
photo by OGA

 一方、2位のポジションから逆転をねらっていたデイビー・ハイトは、それ以上ない最高のスタートを切っていた。朝一番でハイトが向かったのは、セントクレアリバー内にあるシャローバンクだった。ハイトにとって、そこは最低限のウエイトを稼ぐための単なるバックアップエリアにすぎなかったが、開始からわずか20分の間に、4パウンダーを含む4尾のキーパーをキャッチすることに成功。精神的な余裕を持ってメインエリアに向かうことができた。

 ハイトのメインエリアは湖の北東部、カナダ領内にあった。岬状に伸びた水深3~6ftの広大なフラットには、パッチ状のウイードが豊富に点在しており、フォールパターンに移行しつつあるこの時期のスモールマウスを呼び寄せる最適の条件を備えていた。メインに使用したのは1/2 ozホグコーラースピナーベイト(ゴールドのコロラドウイロー、シャッドカラー)とギャンブラー・ジャンピングシャッドの2つ。

 驚くのは、朝8時の段階で、ハイトが早くも推定14Lbのリミットをライブウェルに収めていたということである。つまり、ハイトはすでにこの時点で優勝を決めてしまっていたのである。ハイトがウエイインした19Lb6oz(約8,788g)というビッグウエイトは、仮にニクソンが17Lb15ozを持ち帰ったとしても逆転に成功してしまうほど圧倒的なものだった。

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【あとがき】
 優勝したデイビー・ハイトのメインエリアというのは、セントクレア・カットオフより東側に位置する、セントクレアリバーの分流が注ぎ込むシャローフラットだった。水深3~6ftのグラスフラットにスモールマウスのスクールが入ってくるという状況は、日本のバサーにはなかなか実感が湧きにくいかもしれない。しかも、使うルアーはスピナーベイトとソフトジャーク。似たような状況では、他にポッパー等のトップウォーターを使う選手も多かった。ドロップショットを使えば食うとか、そういう話ではなく、スクールをいかに見つけるかというむしろハンティングに近い世界。

 当時、自分にはウイニングエリアやウイニングパターンをどこまでディスクローズするべきか(事実をどこまで詳細に明かすべきか)という部分に迷いがあり、試合によっては意図的に濁した書き方をしていた。というのも、ESPN以前の「The Bassmaster(TV番組)」は具体的なスポットを明かしたりはしていなかったし、当時はまだ試合結果の詳細を毎日レポートする専門ウェブサイトも存在していなかったからだ。

 日本人選手が徐々に成績を出し始める中で、日本の専門誌にレポートを書く記者として、アメリカの選手に対する「フェアネス(公平さ)」を意識せざるをえない場面が度々あったのは事実。日本の雑誌に詳細な記事を掲載することが図らずも日本人選手への情報提供につながってしまう以上、ウイニングエリアの位置などを具体的に記すことにはやはり抵抗があった。また、日本人選手サイドとしても、雑誌で上位陣のスポットが紹介されてしまえば、次の機会にその場所へ行きにくくなり、結果的に戦略の幅が狭められることも考えられた。そんな諸事情から、読者にとって必ずしも必要とは思われない過剰な詳細は書くべきではないというのが自分の考えであった。

 しかしながら、やがてESPNが番組内で上位者のスポットを地図まで使って細かく紹介し始めるようになり、そうした気遣いもまったく意味のないものになってしまった・・・

 ちなみに、このセントクレア戦の最終日(決勝)、自分は7位でファイナル進出を果たした桐山選手に同船していた。その時の記事は次回にアップする予定だ。

 最後にもう一点。この2001年8月下旬のセントクレア戦に関して、どうしても触れておかねばならないことがある。それは、このセントクレア戦が「セプテンバー・イレブン」の前に開催された最後のトーナメントであったという点だ。

 8月25日にセントクレア戦の取材を終えた自分は、その後、ニューヨーク州のレイクシャンプレインに入った。シャンプレインでは9月12日からFLWチャンピオンシップが行われる予定だった。翌週には同じNY州セントローレンスリバーでバスマスターツアー第2戦も予定されていた。FLWチャンピオンシップのほうは完全な中止となり、ツアー第2戦は12月のフロリダに代えられた。あの「セプテンバー・イレブン」という事件がアメリカのプロツアーに及ぼした直接的な影響は、ちょうどNY州で予定されていたそれら2つの試合がキャンセルされたこと。ただそれだけだったと、少なくともデータの上ではそういうことになるだろう。

 しかし、現実には、あの日を境にアメリカのトーナメントは大きく変わった。正確には、トーナメントが変わったのではなく、アメリカという国が、そしてアメリカに住む人々があの凄惨な事件の生々しい記憶から逃れられなくなってしまったのだ。

 その意味において、2001年8月下旬という「事件」の直前に図らずも開催されたこのレイクセントクレア戦は、かつての古き良き時代の終焉を象徴する試合でもあったのだと言えるかもしれない・・・。

1989年夏号:ラリー・ニクソンの初来日

【前書き】
今回アップする『Basser』過去記事は、「来日外人シリーズ」の第2弾、1989年夏号に掲載されたラリー・ニクソンの記事だ。
今や伝説とされるニクソンの初来日(1989年3月、琵琶湖でのJBTA主催、ダイワ協賛によるラリー・ニクソン来日記念トーナメント)を取材したもの。
前回のジェニファー記事同様、これまた無記名だが、やはり自分が書いている。
試しにYouTubeで検索してみたら、この時の「ザ・フィッシング」のテレビ映像の一部がアップされているのを見つけた。



映像は、プラクティス時に撮影されたものだと記憶している。
この時、自分はテレビカメラが乗るボートにお邪魔させてもらっていた。つまり、まさにこの映像と同じ視点で一部始終を見ていた。
これだけでも充分に幸運なわけだが、試合(1デー戦)当日はなんとニクソンと同船までさせてもらった。
当時、『Basser』は唯一のバス専門誌であり(『Tackle Box』は一応ルアー総合誌という括りだった)、当時の事実上の編集長であった三浦修氏がダイワさんに強く希望したのだと思う。

こうしてみると、自分は恵まれていたのだナァと思わずにはいられない。
が、この時の取材体験はたしかに、自分にとって大きなターニングポイントとなった。
日本には知られていないバスフィッシングの領域、自分の想像を超えたバスフィッシングの世界がどうやらアメリカにはあるのかもしれない、と気付かされたのがこの時の取材だったからだ。

ちなみに、この試合でのニクソンはあくまでもゲスト参戦という形だったのだが、持ち込んだウエイトは2位か3位相当だったはずだ(このあたり、うろ覚えなので、誰か知っている人がいたら教えてほしい)。

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Larry Nixon
「THE HERO on the BOW-FLOOR」

バウ・フロアの上のヒーロー

バスプロなんて言葉がまだない頃、State of Opportunity(チャンスと可能性の州)で彼は生まれた。10代の夢をギュッと握りしめ、今ラリー・ニクソンはここにいる。

リー・ニクソンは1950年の9月3日、アーカンソー州のバプティスト派の説教者の子として生まれた。父親は、カントリーサイドに住むほとんどの男がそうするように、フィッシングとハンテイングを好んだ。ラリーはそんな父親の影響を受けた。リビングのソファーでオレンジジュースを飲みながら子供向け科学雑誌のページをめくるよりも、手に重々しく伝わる魚のファイトや、森で獲物を追い詰める時のスリルのほうが好きだった。

 ラリーが初めてロッドを握ったのはちょうど6歳の時だった。父親に連れられて、初めて生きた魚の感触を昧わった。なかでもラージマウスは最高だった。ラリーは今でも最初に釣ったラージマウスを、初めて見た真夏の積乱雲のように鮮明に覚えていた。最後のひと暴れでバスが上げた透明な水しぶきや、手やロッドグリップに染みこんだバスの匂い、そんなものまでラリーは覚えていた。

 バスフィッシングヘの熱が高まるにつれて、ラリーはベイトキャスティングリールがどうしても欲しくなった。釣りが上手いヤツは皆たいていベイトリールを持っていたし、だいたいスピニングリールよりもカッコよかった。

 ラリーは地元で開かれるちょっとしたフィッシングコンテストに出場することに決めた。コンテストでは一番大きな魚を釣った者に、ベイトリールが贈られることになっていた。自分でも信じられないくらいだったが、そのコンテストで、ラリーは7.4ポンドのラージマウスを釣った。夕方、ラリーがベイトキャスティングリールを持って帰ってくると、父親は新しいロッドを買ってやることをラリーに約束した。ずっと憧れていた、ベイトリール用のガングリップのやつだった。

 1964年、ラリー14歳の夏、ニクソン家はそれまで住んでいたテキサスから、ふたたびアーカンソーに移った。ちょうど秋からラリーがハイスクールに上がる年だった。父親が言う「教育的環境」が、テキサスはあまり好ましくないらしかった。

 ラリーにとってハイスクールはそれほどひどい場所でもなかった。クラスでは常に上から10番以内の成蹟だったし、水泳に野球、ポジションはピッチャーだった。モンローが死んで、ケネディが暗殺され、ベトナムで戦争まで始めたアメリカは、ヘドロの溜まったハドソン川に溺れかけた自由の女神だったが、それでも高校生のラリーにはまだ眩しく美しく見えた。

 ハイスクールにはバスクレイジーも多かった。町が湖に近いせいか、バスフィッシングはかなり人気のある遊びだった。やがて、ラリーはそんなバスクレイジーの1人と友達になった。そいつは筋金入りだった。なんせ、おやじさんと兄貴がフィッシングガイドだった。ボートはもちろん、装備も完璧だった。それからの3年間というもの、週末はバスフィッシングと決まっていた。

 金曜の授業が終わって、その夜から釣り始めた。テキサスまでは、車で数時間だった。アーカンソーにも湖はあったが、「釣り環境」はテキサスのほうが間違いなくよかった。どうやら「教育的環境」と「釣り環境」は反比例の関係にあるらしかった。

 ハイスクール4年の秋、友人は家族そろってテキサスのトレドベンドに引っ越してしまった。トレドベンドはバスレイクとしての知名度が高かったし、事実、バスもよく釣れた。同じような理由から、アーカンソーのガイドたちは同じ頃にほとんどテキサスに移ってしまった。南部のガイドたちにとって、テキサスはフロンティアだったのだ。

 その年のクリスマス休暇に、ラリーは両親を説得してテキサスの友人を訪ねた。 トレドベンドでの日々は夢のようだった。来る日も来る日も湖の上で、こんな生活を毎日送っている友人がうらやましかった。ジングルベルからニューイヤーまで、友人と2人で日に40から150尾のバスを釣った。

 その冬、ラリーはフィッシングガイドをやってみないかとある人物から誘われた。それはマリーナの経営者で、ラリーは腕を見込まれたわけだった。ラリーにとっては願ってもないチャンスだったが、両親は反対した。ラリーを大学に行かせたかったのだ。

 結局、ラリーは2年の短期大学に通った。専攻は農学にした。別に農学に興味があったわけではないが、成績は常にトップクラスだった。大学に通いながら、週末や夏の休暇にトレドベンドでガイドをした。大学をちゃんと卒業するのが両親との約束だったのだ。

 ラリーはガイドとしてもトップクラスだった。マリーナに掛けてあるラリーの予約表はいつも埋まっていた。ガイド料金は1日1人あたり25ドルだったが、そこからボートのレンタル代を引くと、14ドルしか残らなかった。どうやり繰りしてみても、大学の学費をまかなえるほどではなく、奨学金がラリーを助けた。

 ハードな大学時代を過ごしたラリーは、卒業と同時にテキサスヘ移った。最初は渋い顔をしていた父親も、やがてはラリーに協力的になった。父親は持っていたボートをラリーに貸してくれた。ラリーはそのボートに夢を詰め込んでテキサスヘ向かった。テキサスはラリーにとって可能性を意味していた。

 テキサスでは何も問題はなかった。トレドベンドでは、学生時代にガイドをやっていたおかげでラリーの名はある程度売れていた。そして、気が付いたらガイドで食っていけるようになっていた。客にたくさん魚を釣らせてやれれば、客は喜んで金を払うし、チップもはずむ。ラリーは自然と釣りが上手くなっていった。

 父親から借りていたボートは450ドルで買い取った。夏になると両親はラリーに帰ってこいと言ったが、彼は帰らなかった。「毎日仕事があるんだよ、明日も、あさっても、明々後日もさ」とラリーは受話器に向かって微笑みながらそう言った。

 ラリーは毎日レイクに出た。年に300日、そんな生活が2年ほど続いた1974年、24歳の秋のことだった。いつものように湖から上がってきたラリーは、マリーナの桟橋でガイド仲間たちが何か興奮した様子でしゃべっているのを目にした。

「どうしたんだ、何か問題でもあったのかい」とラリーは聞いてみた。

「たしかに問題だよ、これは」と背の低い男が答えた。

「トミーがな、ほらトミー・マーティンさ、ヤツがどうやらバスマスターズ・クラシックで優勝しやがったらしいのさ、オレもたった今聞いたんだけどさ」と髭の男。

 トミー・マーティンはラリーの家のすぐ近くに住んでいて、友人だった。親友と言ってもいいかもしれない。いろいろなことを語りあったし、お互いに助けあった。ラリーは、トミーが今年からB.A.S.S.のトーナメントサーキットを回ると言っていた夜を思い出した。

「あーぁ、今頃ヤツは1万5千ドルの賞金をもらってホクホク顔か、オレもいっちょ出てみるかな、トーナメントに」と背の低い男が言った。ラリーはその男に軽く微笑んでから、父親から450ドルで買い取ったポートに寄せる、静かな波音にじっと耳を澄ましていた。

 ラリーはトーナメントのことを考えなかったわけではなかった。ビル・ダンスやボビー・マーレイ、リッキー・グリーンに交じって闘ってみたいといつも思っていたし、勝つ自信はあった。トミーは口癖のようにこう言った。

「ラリー、トーナメントに出ろよ、人が釣っている時、君はそれ以上釣ってるし、人が釣れない時でも君は釣ってる、これがどういうことだか分かるか、そこにはマネーがあるってことさ」

 それからの2年間、ラリーは金を貯めた。もちろんトーナメントに出るための金だ。年間を通してトーナメントサーキットをまわるためには、かなりの額が必要だった。エントリーフィー、宿泊費、ガス代、それだけの金を注ぎ込んで、マネーを手にする人間はほんのひと握り、いや、ひと摘みにすぎない。ラリーは辛抱強くガイドを続け、たとえ1ペニーでさえ貯金した。

 1977年の1月、ラリーにとって最初のトーナメントは16位に終わった。悪くなかった。そして、ラリーにとって3回目のトーナメントが終了した時点で、すでに彼はクラシック・スタンディングス(注)で8位にランキングされていた。ラリーは夢がすぐそこにぶら下がっているのを実感した。あとはジャンプすればいいだけだった。

 その年のフロリダ州レイク・トホで聞かれた第7回バスマスターズ・クラシックで、ラリーはルーキーとしては異例の2位という成績を残した。次のシーズンからは数社のスポンサーがつくことに決まった。

 1977年秋、ラリー・ニクソンはバスプロと呼ばれるようになり、アメリカもまた輝きを取り戻しはじめていた。

注:クラシック出場資格(当時は上位25位まで)の順位。

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、ラリーは日本にいる。琵琶湖だ。湖では雨が降りだしていた。冷たく、細かい雨だった。コンソールのメータが上がるにつれ、雨は針となって皮膚に突き剌さった。ラリーは、ショアラインに並んだ低い瓦屋根の建物がいくつもうしろに飛んでいき、カモメが湖面を滑空するのを、黒いサングラス越しに見た。そんなショアラインを見ると、ラリーは自分が日本にいるんだと実感できた。

 ドライビングシートの下野正希はスロットルをゆるめた。下野は琵琶湖のことをいろいろ教えてくれた。彼が前方を指さしてラリーにポイントを確認した。

「ここやろ?」

「そう、ここだよ」と、ラリーはうなずきながら下野に答え、ニヤッと微笑んだ。

 ラリーは琵琶湖でのファーストキャストに井筒マリーナを選んだ。南の主なポイントをひととおり回り、デプスサウンダーでそれぞれチェックしていった後、ラリーはまず最初に井筒マリーナでやってみることにした。

 20mほどの間隔を空けて係留してあるヨット群を、ラリーは見た。林のようだった。下野はラリーをちらっと見て、それから同じようにヨットの林を見た。下野がエンジンを止めると、ラリーは立ち上がった。そして、バウフロアでモーターとデプスサウンダーをONにした。

 ここ数日、琵琶湖の活性は信じられないくらい低かった。気温が下がり、山では小雪までちらついた。とても「うららかな春の陽気」といった状態ではなく、それどころか、厳寒期に舞い戻ったようだった。実際に、気温がそこまで下がったわけではないが、少なくとも水のなかではそうだった。

 ラリーがやってくる2日前、湖に出た下野は慌てていた。バスの気配が感じられなかったからだ。次の日も同じだった。そんな状況で、下野が唯一「バスの気配」を感じた場所と方法があった。それが井筒マリーナだった。6フィートほどに伸びたウィードのヘッドやエッジをクランクベイトでトレースした下野は、3日後のトーナメントが見えた気がした。

 ラリーはプラノの引き出し式の大きなタックルボックスから、レーベルのディープダイビングミノーを取り出した。5インチほどで、銀色の、シーバスフイッシングの時などに使うやつだ。下野はラリーの取り出したそのルアーを見て、小さなため息をついた。ホッとしたようにも見えたし、緊張したようにも見えた。ラリーが井筒マリーナを最初に選んだ時点で、下野はかなり焦っていたのだ。

 ラリーはそのルアーを30mほど飛ばした。シングルハンドのロッドを両手で握ってキャストした。バックスウイングでロッドは充分にしなり、ルアーが自然に前へ押し出され、風を切る音がした。ルアーが着水する前にラリーはロッドを左手で持ち、右手はリールのハンドルに触れていた。

 ちょうど5投めだった。ラリーは思い切り身体で合わせた。上半身がのけぞり、ロッドがしなった。ロッドグリップを胸にひきつけ、上半身をのけぞらせたままラインを巻き取った。それから笑うような叫ぶような大きな奇声をあげ、「日本のバスはヤンキールアーが好きなのかい?」と、笑った。

 下野はロッドを膝のうえに置き、ラリーを見つめた。「本物」だと思った。それから、なんだか急におかしくなった。頬の筋肉は緩み、肩に入っていた力が抜けた。ラリーは2ポンドはあるバスを抜き上げると、こう言った。

 「状況によるけど、寒い時には中層を泳ぐルアーがいいんだよ」。

 翌日のプラクティスも天気は同じだった。雨こそ降っていなかったが、あいかわらず気温は低かった。どうやらトーナナメント当日もこんな調子でいきそうだった。ラリーは前日まわったエリアをもう一度チェックした。それは堅田から始まり、自衛隊裏あたりで終わった。

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ーナメント当日、昨日までの天気が信じられないほど、美しい朝暁けが見えた。マリーナの横に広がったちょっとした芝生には、ところどころに水たまりができていた。水たまりは鏡のようだった。見る角度によって、オレンジ色の朝焼けを映したり、碧い空を映したり、慌しく動くエントリーたちを映したりした。だが、そのどれもが実際よりも穏やかな色を放ち、艶つやとしてなにか写真のような印象を見る者に与えた。

 ラリーが外へと通じるホテルのガラス扉を開けた。そのガラス扉にもオレンジ色の朝焼けが映っていた。右手にロッドを持ち、脇に黄色と白のライフジャケットと黒いキャップを挟んでいる。芝生に足を一歩踏み出すと、ラリーは眩しそうに空を見上げた。「トーナメント日和だな」ラリーはそう言って、脇に挟んでいた黒いキャップを被った。

 琵琶湖大橋の下まで徐行したボートは、そこから一気に加速する。エンジン音はバスドラムに似ている。腹に響く8ビートのバスドラムは16ビートになり、アッという間に32ビートに達する。その後、バスボートは風の世界に突入し、深緑色の湖面に張りつきながら、それを切り裂いていく。

 スロットルを開くと、ラリーは左手でキャップを脱いだ。右手はハンドルだった。前屈みで、左手にキャップを持ったままハンドルを握っていた。風がラリーの栗色の髪を引っ張った。今は風の世界だが、止まれば風は感じないだろう。たとえ感じたとしても、それはほんの僅かで、とても心地好いことをラリーは知っていた。3月のこんな日は気持ちよい。ラリーはテキサスの3月を思い出した。夏のように太陽が空に際立たず、激しく輝いたりしない。夏のテキサスはひどい。太陽が地上に降ってきたみたいだ。それに比べて3月は、なにかこう太陽が空ににじんでるというか、空気に自然に溶け込んでいる。空の色もどことなく淡い。でも日本の3月はやはりどこか違う。湿度かもしれない。テキサスの空気は日本ほど湿った感じがしない。あと、空気の透明度だ。日本はボヤボヤした、レンズにフィルターをかけたような穏やかな光に溢れている。ラリーは深緑色の湖面にボートを滑らせながら一瞬そんなことを考えた。

 ラリーはまず手前からやってみることにした。昨日までとは違った結果が出る可能性は充分あった。というか、それはほとんど間違いなかった。だが、ラリーは知らない湖をうろつきまわって、時間をムダにするのだけはどうしても避けたかった。

 堅田の一文字堤防の南側でボートを止めた。キャップを被りながらバウフロアに上がったラリーは、モーターをセットした。ラリーは液晶タイプではなく、フラッシャータイプのソナーを使っていた。このボートには最初、液晶タイプのやつがついていたが、ラリーがどうしてもフラッシャーを使いたがったので、昨日、下野が応急に取り付けてくれたのだった。ラリーは発泡スチロールで固定されたそのフラッシャーを見下ろしながら、フットコントローラーを踏んだ。右手に握られたロッドの先端には、昨日まで使っていたのと同じ、レーベルのダイビングミノーがぶら下がっていた。

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 しばらくの間、堅田から浮御堂にかけてのラインを昨日のように流してみたが、ダメだった。

 「ウエイクアップ」
 ラリーはそう言って、ロッドティップで水面をひっぱたき、ルアーに絡んだウィードをはずした。ウィードをはずすと、ラリーは移動することに決めた。場所は決まっていた。井筒マリーナだ。

 井筒マリーナには、もうすでに何隻かのボートが入っていた。浮御堂からここへやってくる途中、小さな羽虫が何匹も顔に体当たりしてきた。昨日に比べて気温がかなり上がっているようだった。ラリーがモーターでヨットの林のなかにゆっくりと入っていくと、他のボートがヨットから現われたり消えたりした。係留してあるヨットはほとんど揺れていなかった。時々、なにかの金具がマストポールに当たってカラカラと音を立てたが、それはヨットが揺れているせいではなかった。

 ラリーはルアーを交換した。レーベルのミノーからバイブレーションプラグに換えた。まずタックルボックスの引き出しからバイブレーションプラグを取り出した。それは斜めから降り注ぐ淡い陽の光にキラキラと応えた。それからラインを切った。ラインは手で引きちぎった。ルアーはクリンチノット(リバースクリンチ)で結んだが、くるくるとラインを縒るところで、ラリーはそれを手でやらずに、ルアーのほうをグルグルと回した。この一連の動作を終了するまでに、10秒もかからなかった。

 結び終わると、ラリーはすぐに立ち上がって、両手を使ってフルキャストした。風を切る気持ちよい音がして、ルアーはかなり遠くまで飛んでいった。手前にある水色のヨットの向こう、ペンキの剥げかかった赤い色のヨットの横30cmの所に、ルアーは着水した。左手でサミングしているので、ラリーは着水と同時にリーリングすることができた。

 ルアーが着水してしまうと、突然、静けさがやってきた。背中に暖かさを感じ、カラカラというヨットの音と、ハチが飛んでいるようなモーターの回転音だけが聞こえた。カラカラカラカラカラカラ、ヴーーーー。

 ラリーはどういうわけか急に昔のことを思い出した。初めてバスを釣ったときのことだ。父親に連れられて、初めてバスを釣ったときの水しぶきだ。浮上してきたバスが水を割って飛び出し、からだ全体をエビのように曲げて水を銀色に輝かせた、あの瞬間だ。その水しぶきは、今まで何千回と目にしてきた水しぶきとはどこか違う気がした。すごく貴重で、大切なもののようにラリーには思えた。そして、もう一度、あの水しぶきを見たいと思った。

と、その瞬間、ロッドに強烈な衝撃を感じたラリーは、反射的に上半身をのけぞらせた。ロッドが弓なりにしなり、手にバスの振動が伝わると、それまで止まっていた音がいっせいに押し寄せた。いろんな音がラリーの頭の中でせめぎあった。満水のダムをダイナマイトで爆破したみたいだった。ラインが逆回転して出ていくのがわかった。左手の親指がそれを感じた。ラリーは、でかい、と思った。だが、実際にそう叫んでいた。カメラのシャッター音がして、カメラマンが何か叫んだ。

 その後、ラリーは浮上してきたバスを見た。フックはしっかり掛かっていた。ラリーはそのバスを見て、ハンドランディングすることに決めた。抜き上げるには大きすぎた。50cm近い。バウフロアに膝をつき、手を伸ばした。親指がバスの下顎をとらえた。指先に力を込め、しっかりとつかんだ。瞬間、バスが水しぶきをあげ、ラリーの顔にかかった。その透明でキラキラした水しぶきは、初めて釣ったバスのイメージと重なりあい、ラリーは大きな声で笑った。声はあたりに響き、また静けさがやってきた。

 マリーナには人が大勢いるようだった。近づくにつれ、はっきりとしてきた。桟橋とその周辺には、他のエントリーやカメラマン、それに少年たちがいて、ゆっくりと近づくラリーを見つめていた。数mのところまで来ると、あちこちでラリーを呼ぶ声がした。桟橋の先端にボートを留め、ラリーはライブウエルからバスを取り出して、水の入ったビニール袋に移した。集まった人たちはバスをのぞきこみ、口々にビッグフィッシュと言った。

 「ああ、なかなかなもんだよ、なかなかだ」。
 ラリーもそう言って笑い、ウエイインステージヘ歩きだした。

 その時、そこにいたすべての人々は、彼をヒーローだと思った。夢をギュッと握りしめたバウフロアの上のヒーローだ……。

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【あとがき】
前回アップした『Basser』過去記事のあとがきでも少し触れたように、1980年代~90年代にかけてのチームダイワ米国プロスタッフには、今見るとニワカには信じがたいほどのモノスゴイ顔ぶれが揃っていた。
ビル・ダンス、リック・クラン、ラリー・ニクソン、デニー・ブラウワー、ジョージ・コクラン、ギド・ヒブドン、ディオン・ヒブドン、ジェイ・イエラス・・・。
それはまさにドリームチームと呼ぶに相応しい面々だったが、残念ながら、現在はその全員が他メーカーに移籍してしまっている。
自分が知っている限り、彼らは皆、最後までダイワ製品を使いたがっていた。
誰一人として自ら進んでチームダイワを離れたわけではなかったことはここにあらためて記しておく意味があるだろう。
ある選手などは「契約金はいらない。タックルの支給だけでいい」とまで言ったというが、それでも時代の流れには逆らえなかった。

2000年以降、米国では史上かつてない空前の住宅バブルが発生した。
過剰流動性、すなわち銀行から溢れ出した資金がプロトーナメントの世界にも流れ込み、ここでも派手なバブルを発生させた。
賞金の高額化と同時に、選手の契約金もまたうなぎ上りで高騰していったことはご承知の通り。
そんな中、超大物選手を何人も抱えていた米国ダイワがチーム解散の道を選ばざるをえなかったのも、経営上は仕方がなかったのかもしれない。
当時、自分はそれを「仕方がない」とは考えられなかったのだが、その後新たに見えてきたことも多々あり、今は「仕方なかったのだろう」と理解できる。

というのも、米国ダイワが「チーム」を維持するために必要だったコストは、決して選手たちとの契約金ばかりではなかったからだ。

例えば、こういうことだ。

Aというタックルメーカーがある選手とプロスタッフ契約を結んだとしよう。
この時、A社はその選手個人に対して契約金を支払っているわけだが、だからといってA社がその選手のトーナメントでの活躍ぶりを自由に自社製品の広告等に使えるかと言うと、必ずしもそうではない。
A社がトーナメントにおける契約選手の活躍と自社製品の宣伝を結びつけてプロモーションするためには、選手との契約金とは別に、トーナメント運営組織への「上納金」を支払わなければならないのだ。
この時、もしもA社が支払いを拒んだらどうなるのか。
簡単である。
A社はもはや、そのトーナメントの映像や写真はもちろんのこと、運営組織名やロゴなど知的財産として守られているものはいっさい自社の宣伝に用いることが許されないだろう。
必ずそのような強硬手段がとられるわけではないが、トーナメント運営組織としては、いつでもそれを実行できる立場にあるということが重要である。

もっとも、バスフィッシングトーナメントにおける主たるメディアが雑誌であった90年代までは、上納金といっても、せいぜい雑誌広告費とそれに付随するイベント費用くらいのものだった。
その程度であれば、たとえA社がルアーメーカーなどの中小企業であったとしても、まだまだ利益を上げられただろう。

ところが、メインメディアが雑誌からテレビへと移行した2001年から後は、トーナメント運営組織がA社に要求する上納金は桁違いに高額化した。
ビジネスを前面に押し出したFLWが台頭する一方で、2001年以降は老舗であるB.A.S.S.までもがESPNのもとで明確な商業路線を歩み始めた。
そして気付けば、両トーナメント運営組織は出場選手たちのマネージメントまで仕切るようになっていた。
時にトーナメント運営組織は選手が個人的に契約するB社に営業をかけ、B社と公式スポンサー契約を結んだり、その反対に、公式スポンサーであるC社に対して有望選手を斡旋するなどして、選手が他のトーナメント団体へ移るのを防いだ。
むろん、そうした営業行為自体が法的に問題となるわけではないが、多額の上納金を支払える企業が(釣り業界の中では)一部のビッグカンパニーだけに限られてしまったのは事実と言える。

「チームダイワ」最後の3人(=ブラウワー、コクラン、イエラス)は2007年までプロスタッフ契約を継続していたが、そのわずか3年後の2010年には、ESPNがB.A.S.S.を売却し、アウトドア番組からの完全撤退を発表した。
2010年はやがて、トーナメントにおける主たるメディアがテレビでなくなった年として記憶されることになると自分は考えている。
新しいメインメディアが何かと言えば、それはもちろんウェブである。
そして、この新しいメインメディアへの切り替えは、今までトーナメント運営組織への上納金を何らかの理由で拒んできた多くの企業にとっても朗報になる可能性が高いのではないか、と。

というわけで、今回も最後に懐かしい広告を紹介しよう。
1989年夏号をスキャニングしていて目に付いた広告がコレ。

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2007年のクラシックにフェデレーション枠から出場を決めた築山滋氏の若かりしお姿!
窓際のワイルドターキーに80年代を感じたアナタはきっと40代!

1989年春号:ジェニファー・フェドリックの来日

【前書き】
いつかホームページなりブログなりを始めたら、自分がこれまで書いてきた記事をアーカイブしておこうと考えていたのだが、いざ実行に移そうとすると、いろいろと厄介な問題があることに気づいた。

まず第一に、その量が膨大だという点。
自分が雑誌『Basser』に記名原稿を書き始めたのは大学を卒業した1991年からだったが、実はそれまでも無記名という形では記事を書いていた。
初めて取材をして原稿を書いたのは、『Basser』の編集スタッフとしてバイトを始めてわずか2カ月後の1988年秋。オールスタークラシックの記事だった。
同船した沢村幸弘選手が優勝したため、誌面のなかで核となる重要な記事を急遽自分が書かねばならなくなってしまった次第。
そういった初期の頃の無記名記事から含めると、現在まで実に23年間。ソルト系の編集をやっていた93~95年の中抜けを引いても20年分もあるわけで、ざっと計算すると、190号分にも及ぶ。
我ながらよく続いたものだと感心するが、それらをすべてこのブログにアーカイブするとなると、その投稿作業だけでもかなりの時間を要するという事実にあたらめて気付いた。
なにせ記事本数で言えば、少なくとも倍にはなるだろうから、おそらく380本分くらいの記事がある。1日1本ずつアップしていったとしても、1年以上を要する大シゴトだ。
が、投稿を1日1本のペースでなど、とてもできるものではないことも判明してしまった。

それが第二の問題。
原稿データの大部分がなんと紛失してしまっていたのだ・・・。
まず、初期の頃はコンピューターではなくワープロ機を使っていたわけだが、データを保存しておいたフロッピーディスクがどこにも見当たらない(;^ω^)
さらに、コンピューターを使い始めてからのデータも、ワープロソフトがすでに廃盤になっている上に、対応OSを起動可能なマシンもすでにない状態。
悪いことに、約10年分のデータを入れておいた外付けハードディスクまでもが、つい先日、認識不能に陥ってしまった・・・。
つまり、過去数年分を除いて、それ以外はすべて誌面からのスキャニング>OCRソフトによる読み取りという果てしない作業をしなければならないらしいorz

そんなわけで、過去記事アーカイブ化計画がいつフィニッシュするのか、自分でもまったく分からなくなってしまったことをまず先にお伝えしておくw

さて、今回アップする「THE COLOR OF BLUE」だが、これは「来日外人シリーズ」と自分で勝手に読んでいる初期の頃の無記名記事のひとつ。
ご想像の通り、誌面スキャンからデータを起こし直したw
1988年に来日した女性プロ、ジェニファー・フェドリックのJBTA参戦を取材したもの。
琵琶湖での苦闘っぷりを縦糸に、彼女の生い立ちとアメリカでのエピソードを横糸として強引にまとめた内容。
当時の編集長、三浦修氏からは「ジェニファーの紹介記事としてまとめてほしい」との要望だったと記憶している。
今読むと、心象風景描写が過剰すぎて自分でも「はぁ?」と思ってしまう部分が多々あるが、二十歳の生意気な小僧が80年代のバブル期に書いたものとして笑い飛ばしていただければ本望。
あの頃はハウツーだけが釣り雑誌じゃないっスョ!なんて粋がっていたのだったw
若かったのだなァ、と。
ただ、日本の選手たちの20数年前の雰囲気が行間に見え隠れしていたりするので、今でも日本のバスフィッシングにおける歴史的資料としては楽しめるかもしれない。

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「THE COLOR OF BLUE」
Jennifer's summer in timeless way

アメリカトーナメント史上最強の女性プロフェッショナル、ジェニファー・フェドリック。その初来日は多くのバスフィッシングファンを魅了した。

Jennifer Fedrick(ジェニファー・フェドリック)
アリゾナ州出身、28歳。1985年にチームトーナメンターとしてトーナメントバスフィッシングの洗礼を受け、その後、アメリカのバスフィッシング史上最強の女子コンペティターになる。
1985年、ワールドチームチャンピオンシップ、全米第10位。
1986年、アリゾナ・プロフェッショナル・バストーナメントの「Tournament of Champions」に出場。
1987年、USバス・ナショナル・トーナメンツに参加、数々の素晴らしい成績を収める。同年、USオープンにおいて、「ビッグフィッシュ賞」を獲得した史上初の女性トーナメンターとなる。
1988年、USA女子バストーナメントを含む6つのトーナメントで優勝。USバス史上最高の女子マネーランキングを達成。そして1989年、ジェニファー・フェドリックは国という壁を越えた国際レベルでの成功を目指している。


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1988年11月20日、午前6時30分。
 風景はピリピリとしたオレンジ色に包まれていた。琵琶湖の広大な水面から立ちのぼる水蒸気、そんな水面にひしめきあうバスボート、気にならない程度に流れる西風、そして選手たちの堅い表情、朝の太陽はそういったものすべてを強烈なオレンジ色に染め上げていた。

 それぞれのボート上では選手たちがエンジンやその他のエレクトロニクス系の調子をみたり、タックルをセットしたりしていて、あちこちで響くエンジンのイグゾーストサウンドが彼らの強張った表情と重なり合い、スタート前のいつものトーナメント風景を創りだしている。

 グラウンドの中央には、JBTAのステージがあり、そこではエントリーのレジストレーションが行なわれている。スピーカーから絶えず飛び出す何かしらのインフォメーションは引き締まった朝の空気を振動させ、ボート上で準備に没頭している選手たちの鼓膜をほんの少しだけ震わせた。

 トレーラーの前では、レジストレーションを済ませた選手たちがいくつかのまとまりになって話をしている。エンジンの唸りやスピーカーから聞こえる事務的な声にかき消されて、選手たちの間で交わされる会話は聞き取ることができない。時折、あたりに漂う緊張した雰囲気を和らげるような笑い声が湧いたが、そんな笑い声は何事もなかったようにすぐに冷えきった空気の中に吸い込まれた。

 そのグラウンドに彼女が姿を現わした時、40ほどの黒い瞳が彼女の顔と、その右手にしっかりと握られた4本のロッドに向けられた。彼女がグラウンドの中央に進むにつれ、表情をそっと窺うようなその視線の数は増えていき、彼女が、ちょうどステージの前あたりで足を止めると同時に、6ダースほどの視線はパッとあちこちへ散っていった。

 遠くから見る彼女はまるでベルジャンフラッグのようだった。赤と黒のスキーターのワンピーススーツ、太陽を浴びていつもより濃い色に輝くブロンドの髪、最初に目に飛び込む彼女のそういった外見的な特徴は、黒と黄と赤の旗のように映えていた。

 ある程度の距離から見ても、彼女がアメリカの女性にしてはわりと小柄で、繊細な体つきをしているのがわかった。背は165か6cmといったところだろう。また、欧米人の女性に特有の、あのバーンとした腰も彼女にはなかった。

 手に持っていたストレーンの黒のバッグを足元に置き、そのバッグに立て掛けるようにして4本のロッドを置いた。3本のベイトタックルと1本のスピニングタックルだ。

 スピニングタックルにはキャロライナリグがセットしてあり、まだワームがついていないフックはロッドのバットガイドに引っ掛けられていた。ベイトタックルにはそれぞれスピナーベイト、クランクベイト、テキサスリグがセットされていた。スピナーベイトはホワイトスカートのゲーリーヤマモトで、クリア・ウィズ・シルバーフレークの4インチグラブがトレーラーされていた。クランクベイトはチャートリュース、テキサスは6インチのパープル・ウィズ・グリーンフレークカラーだった。南湖の特徴であるマッディーな水質にマッチさせたものばかりだ。

 彼女はスーツのポケットから黒いゴムバンドを取り出すと、風でまとわりつく髪を無造作に後ろでひとつに束ねた。彼女の手はひどく荒れていて、細く、すっきりと長い指には飾り気というものがまるでなかった。短くきちんと切られた爪、マニキュアの輝きのない爪。そして、漁師のように荒れた皮膚……。

 たった今昇ったばかりの太陽がちょうど前方にあり、彼女は眩しそうにその美しい朝焼けを見つめていた。それから、まだ夜を引きずっている上空のロイヤルブルーを見上げると誰の耳にも入らないくらいの小さな声で独り言を言った。彼女の口から白い息がちょっとだけ出て、すぐに消えた……。


1972年、アメリカ、アリゾナ州。夏。
 空を見上げると、飛行機雲がひとつ、ほぼ真上で強烈な光を放っている太陽の横を避けるようにして走っていた。空全体を覆っている吸い込まれるような青さも、じりじりと照りつける太陽の近くでは薄れて、白くなってしまっていた。

 木でできたその小さな桟橋は、茶褐色の岩盤やさらさらに乾ききった砂に周囲を囲まれて、ほとんど忘れられたように猛烈な日差しにさらされていた。その桟橋の上で仰向けになって寝転び、膝から下の両足をブランコのように揺らして、空を見つめている少女がいた。少女は小さなスピニングリールが付いた長くも短くもない、彼女にはちょうどよい長さのロッドを、右足の太股と桟橋の上板の間に器用にはさんでいた。

 水色のショートパンツからスーッと伸びた少女の足は日に焼けて、ピンク色になり始めていた。男の子みたいにツンッとした鼻や、彼女の小さな顔にはやけに大きく見えるサングラスの端から覗く頬や、うっすらと汗のにじんだ額は、強烈な砂漠の太陽を浴びて、すでに濃いピンク色に変わっていた。

 彼女のブロンドはショートパンツと同じ水色のリボンできちんとポニーテールに結ばれていて、よく男の子がする、頭の上で両手を重ねて枕のように置く、ちょうどあのポーズで寝転がっていた。

 真っ黒なサングラスをかけて、透き通った7月の空を見ると、まるで月のクレーターの底にでも寝転がって宇宙を眺めている気分だった。空は濃いブルーに見えるし、まっすぐに描かれた飛行機雲は星雲かなにかのようにも見える。それに、あの眩しい太陽も夜明けの金星をそのまま大きくしたくらいにしか見えないし、視界の端にはゴツゴツとした岩山まである。

 彼女はサングラスを少しずらしてみた。とたんに真っ白な陽の光が飛び込んできて、一瞬、目をつむった。恐る恐る開けた目にも、光はとても眩しかった。右の手のひらを頭上の光源にかざしてから、今度はそっと目をつむってみた。

 そうしていると、実にいろいろな音が聞こえた。いつもは気にもとめないような音も、目を閉じると、不思議なくらい自然に耳に入ってくる。微かな水音、耳の横をかすめて飛び去る昆虫の羽音、ラジオから流れるカントリー、そして父親の吹く口笛……。

 「おいジェニー!起きろ!ヒットだ。デカイぞ」。突然、父親の大袈裟な叫び声があたりに響き、眩しそうにしながら少女は頭を少し持ち上げた。

 「……」。笑いながら、缶ビールを持ってアイスボックスの上に座り込んでしまっている父親を、少女はキョトンとした、まるで状況が飲み込めないといった表情で見つめた。

 「なかなかのグッドサイズだろ」。父親はそう言って、右手の大きな缶ビールを持ち上げると、舌打ちとともにウインクして見せた。

 「ほんと、何ポンドかしら」。少女の顔にもパッと微笑みが浮かんだ。鼻の頭と頬が、もうかなり赤くなっている。

 「さっきからサッパリだよ。この暑さで魚も水底にへばり付いているんだろうな、きっと。トカゲみたいにさ」。

 「じやあ、底に落としたら釣れるかしら」。

 「その前にひっかかっちまうさ。ゴツゴツした岩なんだよ、この湖の底は」。父親はすでに釣りはあきらめたといった感じで、もっぱら陽光とビールを楽しむのに専念している。

 少女は足にはさんでいたロッドを掴むとおもむろに立ち上がり、銀色の小さなスピナーを、濃緑に透き通った足元の液体にポトリと落とした。スピナーは一瞬、鋭い閃光を放ち、それから、水面に張り付いた真っ白い太陽の中に静かに消えていった。

 伸びたスプリングのように丸まったラインが、しばらくの間、気持ち良く水中に引き込まれていき、やがて押し戻すようにして止まった。

 少女はリールのハンドルを3回ほど回し、ラインをピンッとまっすぐに伸ばすと、今度はロッドを上下にゆっくりと揺らし始めた。瞬間、ロッドティップがバネのように弾み、ラインがスーッと水を切って走った。

 2分後、少女の手には、湖の色と同じ濃い緑色をしたブルーギルがしっかりと握られていた。

 ブルーの空には、依然として、太陽がいささかの衰えも見せずに輝き、赤茶けた大地や鏡のような湖面、そして桟橋の上で魚を握りしめている少女などを、先ほどと同じ精一杯の夏の恵みで満たしていた。

 ただひとつの変化といえば、ほんの少し前までくっきりとした線を上空に描いていた飛行機雲が、今ではぼやけて広がり、ちょっとした時間の経過と、永遠の夏という少し象徴的なイメージを濃い夏の空に加えているだけであった。

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 スロットルを開くと、琵琶湖が動き出した。琵琶湖大橋の真下、赤いスタートカードがオフィシャルの頭上に高々と掲げられると、目に見えるものすべてが後ろに向かって動き始める。だが、左の空の太陽とその周囲の雲だけは例外で、その場に静止したまま、じっとこちらを見つめている。

 サングラスをかけたジェニファーは、キャップを右手で押さえて、いくらか前かがみにしている。彼女が左を向くと、サングラスに黄色い太陽が映った。雲の間を這い上がるようにして出てきた、朝の黄色い太陽だ。

 湖上はかなり荒れていた。20フィートボートが波の衝撃で弾み、湖面を飛ぶようにして走り抜けていく。エンジ色の絨毯をひきつめたフロアが激しく揺れ、ロッドやフットコントローラーはまるでフライパンの上のポップコーンのように跳ね回る。

 7時30分。ボートは最初のポイント、北山田に到着した。スロットルが閉じられると、ジェニファーはバウに飛び出していった。モーターとソナーを慣れた手つきでセットすると、テキサスリグのベイトロッドをつかみ、鉄柱が突き出したエリアを目指してフットコントローラーをいっぱいに踏みつける。バウに立った彼女は、まるでシーソーにでも乗っているかのようだった。北西の強風にあおられて水面が激しくゆがみ、あちこちで生まれた波が、行き場を求めてお互いにぶつかり合い、ボートにも自棄になって体当たりしてくる。

 どうにか鉄柱のそばまでボートを寄せることに成功した彼女は、チェアに寄りかかるように立ったまま、派手なグリーンフレークの6インチワームをフリッピングして、その鉄柱の脇へ落とし込んだ。ソナーは1.8mの水深を示している。水はとてつもなくマッディーで、鉄柱が水面から生えているかのようにも見える。彼女はシェイキングを続けながら、なんとかボートをステイさせようと、フットコントローラーからけっして足を離さない。

 いつのまにやって来たのか、50mほど離れた鉄柱に、今日の優勝候補と噂される吉積健司がボートをステイさせていた。彼もまたジェニファー同様、風に流され、波に揉まれて苦戦しているようすだった。

 彼女は、腰に当たるチェアをしきりに気にして、ピラーの部分を左手でまさぐるようにいじっては調節しようとしている。ボートが揺れるたびに、前へ押されるような感じがするのだ。何気なく吉積のほうを見ると、彼はちょうどスピナーベイトをキャストしていた。吉積が鉄柱めがけてキャストしたスピナーベイトは、自らの意思で動く機械でできた小さな鳥のように、ピカピカと光線をあちこちに振り撒きながら、茶色くサビた柱の少し先へ飛び込んでいった。

 彼女はロッドをフロアに置くと、さっきから気になっていたチェアを、両手で持ち上げてはずした。フロアにはま30cmほどの支柱が突き出している。彼女はそれもはずそうとするが、結局はずれなかった。金色のコールドウェザースーツを着た丸顔のドライバーが、「アブないデ」と呟きながら、無用になったチェアをストーレッジのところまで持ってきた。
「サンキュー」彼女は緊張した微笑を頬のあたりに浮かべながらそう言った。口元でそれと理解できる程度の小さな声だった。

 鉄柱と鉄柱の間にはどういった目的からか、黒っぽく変色したロープがゴチャゴチャと張りめぐらされていて、小型の黄色いブイが近寄ってはならぬと言わんばかりに、周囲を疲れきったガードマンみたいにずらりと取り囲んでいる。全体として見ると、気まぐれな彫刻家が面白がって湖に捨てた、できそこないのモダンアートといった感じだ。

 彼女はスピナーベイトを鉄柱に沿ってトレースし始めた。鋭い角度で水中に突き刺さったラインは、ピーンと張ったまましだいに手前へ近づいてくる。それは1本めの鉄柱を通り過ぎ、2本めの鉄柱も通り過ぎた。ボートはいぜん琵琶湖に揺さぶられている。

 バウフロアに無造作に置かれた3本のロッドから、彼女はもう1度テキサスリグを選んだ。パープルにグリーンフレークが多めに入った、例の6インチだ。

 突然、琵琶湖が大きく揺らいだ。ボートの下で緑茶色の水が生き物のように身をくねらせて、彼女はコンソールの前面に鈍い音をたててひっくりかえる。瞬間、ドライバーがシートから腰を浮かせて彼女を見る。ライフジャケットが衝撃を吸収したのだ、と彼女は思った。彼女は口をキッと結び素早く立ち上がると、ボートが風にあおられているのに気づき、急いでモーターを回転させた。

 彼女は5秒前のそのハプニングなどすっかり忘れてしまったかのように、ボートが流されているという状況に極めて冷静に対応した。彼女の意識は今では完全にロッドとフットコントローラーに集中している。

 「やっぱりチェアあったほうがええデ」例の金色スーツの男が心配して、まるで独り言のようにボソッとつぶやく。

 彼女は素早くモーターを引き上げ、ロッドを隅に寄せて片付けると、あそこのバンブーの所へ、と言って指差した。

 そこはいくつかの真珠棚が適当な間隔を置きながらも集まっている場所で、鉄柱からはそう離れていない。そのうちの1ヵ所で彼女はスピナーベイトのピッチングを始めた。等間隔に並んだ竹杭に沿って丁寧にリ一リングを繰り返す。風が少し収まり、波も弱まってきた。

 スタートから1時間半、彼女は「木の浜」ヘボートを走らせた。木の浜のカド、かなり沖合いのシャローだった。河辺裕和の姿が見える。ドライバーが大きな声で調子はどうかと叫んだ。

 「40オーバ一!」同じようにそう叫び返してから、右手の指を3本立てた。興奮をノドの奥に詰まらせたような河辺の言葉には、自信と余裕の裏返しといったものが感じられた。

 「ジェニファーは?」河辺が叫んだ。彼女が河辺のほうを振り返る。金色のスーツを着たドライバーが黙って首を振る。河辺も黙ってうなずき、25mほと離れて行なわれたコミュニケーションはそこで途切れた形になった。

 「カワベは釣ったの?」彼女がたずねる。

 「スリーフィッシュ」。ドライバーがそう答えると、「Good」と呟いて河辺を見た。

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1987年7月29日、ネバダ州、レイク・ミード。
 あたりの風景は目に見える限り、西部に住む者には見慣れた、ある意味で西部のプロトタイプとも言える、あの埃っぽい赤褐色の粗削りな岩山で完全に支配されていた。

 唯一、人間の匂いを感じさせるものと言えば、白っぽい均一な石で固められた半島と、その上に乗っけたように建てられている大きな茶色い屋根のクラブハウス、その前方にある青と白のテントでできたウェイイン会場、そして半島の先端につながっている巨大なマリーナなどが、ひとまとまりとなって存在しているだけであった。

 午後になって太陽は強さを一段と増した感じで、雲ひとつない空から強烈な光線が手当たりしだいにバラ撒かれている。そんな太陽の下にいる人々はきまって濃い色のサングラスをかけ、何かしらのマークの入ったキャップをかぶっていた。

 U.S.0PENの初日は例年こんな天候だ。日差しと呼ぶには強すぎる太陽、自分ばかりか湖面までも黙らせてしまう風。そして何百というサングラス。誰もが湖面を疾走するバスボートになりたいと願うのだ。

 結局、この日、バスをウェイインできた者は少なかった。ほとんどのエントリーがこの天候に悩まされ、口々にタフの一語をつぶやいていた。

 ジェニファーがマリーナに戻った時、桟橋はすでに帰っているエントリーと有名プロを一目見ようと集まってきた人々でいっぱいだった。そんなマリーナは今まで自分がいたレイクの雰囲気とは何もかもが対照的に思えた。風景の色や音、そして、同じはずの空までが彼女にはどこか違ったもののように見えた。

 彼女はビニールに3分の1ほど水を入れ、ライブウェルから慎重に魚を移した。持ち上げると、ずっしりとした気持ち良い重さが手に伝わった。

 「大きいな。今日のビッグフィッシュじゃないかな」。ウェイイン会場に向かう途中で他のエントリーが声を掛けてきた。

 「だといいけど。なんとか5位以内に入れればね」。彼女が答える。

 「ひょっとしたら2万ドルのボートは君のものかもしれないぜ」。驚きと称賛の微妙に入り混じった表情だ。彼女は軽く微笑みを返すと、クラブハウスヘと延びている緩やかなスロープをしっかりとした足どりで歩いていった。

 彼女の頭の中では、数時間前の出来事が決して失われることのないたくさんの記憶のカケラとなり、限りなく広がっていった。まるであたりの景色を完全に飲み込んでいる永遠に広がったスカイブルーのように……。

 貧弱なウィードの陰にその魚を見つけた彼女は、素早く、そして慎重にポップRをキャストした。その小さなポッパーはいくらか頭をのぞかせているウィードに向かって飛んでいき、それに引っ張られたラインが空中で自然な弧を描いて光り、やがて水面に張り付くようにして落ちた。鏡の水面に波紋が生まれ、光のシワになってゆっくりと広がっていく。彼女がロッドティップを細かく震わせると、ポップRは口からビー玉みたいなアブクをいくつか吐き出して、いかにも夏の湖にふさわしい音をたてた。「さあ、何してるの、いらっしゃい」心のなかで彼女は何回もそう叫びつづけた。

 もしショアーに人がいて、彼女を注意深く観察していたとしたら、その人はきっと、湖面を食い入るように見つめる彼女の真剣な表情に、少し場違いな印象を受けたかもしれない。だが、次の瞬間、まだその人が同じ場所にいたなら、彼女がその場を去って行ってしまうまで、妙に感心したような顔つきでボートのようすを眺めていたことだろう。

 「すごいな、3ポンドはあるぜ」。フロアで暴れている魚を見て、彼女のポーターが驚いて言う。

 「やったわ。この子がね、あそこのウィードの所に見えたのよ。ハラハラしたわ、あなたに気づかれるんじゃないかと思って」。嬉しそうな目が黒い大きなサングラスを通してもわかるような、そんな笑韻だった。

 「やられたよ。とにかく、おめでとう」。ボーターの笑い声が赤褐色の岩山までとどき、いくぶん柔らかな音になって跳ね返ってきた。

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 レッドフレークの派手なボートが近づいてくる。黄色いソラロームのキャップに、青いウインドブレーカー。

 「イマエクンが来たで」と、ドライバー。彼女が振り向いた。今江はかなり遠くからモーターだけで近づいてくる。

 5mほど離れた所にボートをステイさせた今江は、ドライバーに挨拶して、ジェニファーが釣ったかたずねる。

 「あかん」と、ひとこと言ってから「河辺君は釣っとるで」。そう続けて、100mほど離れた所で釣っている河辺を指差した。今江はそっちを向いて目を凝らす。河辺のボートは陽光の反射で光の帯のようになった水面に揺れている。

 向き直ると、今江はジェニファーに早口な英語で話しかけた。

 「今日はタフだ。ほとんど皆釣れてない。シシィベイトを使って、まずキーパーを釣ったほうがいいかもしれない」。

 うなずいて聞いていた彼女はあたりを見回した。今江もまぶしそうに目を細めてあたりを見回している。

 ショアーまでは300mくらいの距離だ。ちょうど正面の所が直角になっていて、奥へ切れ込んだ先には桟橋が見える。左サイドは、定規をあてたような直線がかなり先まで続いていて、イメージとしてエアポートがすぐに思い浮かぶ。そんな風景だ。

 今江とジェニファーはレイク・パウウェルで1度、一緒に釣っていた。ノンポーターとして、今江が彼女のボートに乗ったのだった。琵琶湖では共にプラクティスをした。初めて訪れる湖で、その湖を何も知らずに、誰の力も借りずに魚をキャッチするのはどんな人にとっても難しい。

 「彼女には話してありますけど、この先の第3水路のところのマリーナとか、あの辺を案内してやってください」。今江はドライバーにそう言うと、来た時と同じようにモーターだけ回しながら離れていった。

 彼女は袖を少し引っ張って、手首に巻かれた時計を見た。時計は9時23分を示していた。スタートしてからライブウェルをまだ一度も開けてない、と彼女は思った。

 「場所ええんか?ここで」ドライバーがたずねる。一瞬、彼女は初冬の小さな太陽を見上げた。サングラスを通したそれは、濃いブルーに浮かぶ黄色い輝きの粒だった。それから彼女は手際よくロッドとモーターをかたづけた。ロッドをひとまとめにして、フロアに付いたベルトで固定し、モーターを一息に青緑色の湖から抜き上げる。

 「マリーナ?」前方を指差しながらドライバーが言う。彼女は「OK」とだけ言って、うなずいた。

 頑丈そうな堤防でできたそのマリーナはCの字形をしていて、突端にはテトラが入っている。少年たちのキャストするラインがあふれる光のなかで銀色の線になり、堤防の上からいくつも降っている。目隠しをされた人がここに連れてこられて、この情景を目にしたら、きっとここを海だと思うだろう。

 堤防の少年たちはジャンヌ・ダルクを見つめるフランス市民に似た視線を彼女に送っている。彼女が小さな黒いスポーツバッグのジッパーを勢いよく開ける。バッグにはグラブやワームがビニール袋のままいくつも詰まっている。彼女はその中から1つを取りだす。日焼けを重ねた指先で、ペッパーフレークのちりばめられた透明なワームが陽に輝いている。彼女は50cmほどのリーダーをとったサウスキャロライナの先端にそれを付けた。

 水深2.5m。彼女はテトラ周りをゆっくりと探る。そして4投め、彼女は唯一のスピニングタックルでリールトラブルを起こしてしまった。ラインローラーとベイルに細いラインががっしりと絡みつき、最終宣告に似た何か決定的な瞬間の雰囲気を漂わせている。「シシィベイトを使ったほうがいいかもしれない」。今江の言葉が彼女の頭の中で何度もフラッシュする。

 「もうシシィベイトは使えないわ」。ほとんど聞こえないような声で彼女がつぶやく。誰かに訴えるような絶望的な声で……。

 明るすぎる太陽が、彼女の目には明るすぎる太陽が、頭上で輝いている。冷えきった大気をいくらかでも暖めようと、その白い太陽はあたりを光で満たしている。

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1988年11月13日、河口湖、信号前。
 信号前にはかなりのボートが入ってきた。もっと奥へ向かうボートが2隻、激しい振動音を響かせながら弛んだ水面を切り裂いていく。初冬の太陽の微かな暖かさで、フロアやシートを真っ白に覆っていた霜がゆっくりと溶けていくのがわかる。風はない。

 彼女はPOE'Sと書かれたライトベージュのキャップを浅く被っている。POE'Sは彼女のスポンサーのひとつだ。彼女の視線は黒い大きなポラライズド・サングラスを通してソナーの液晶パネルに注がれている。液晶パネルはボトムを表わすタイトな線を奇妙なくらい正確に映しだしている。

 ボーターの関千俊がフットコントローラーを静かに踏んで、17フィートのチャンピオンボートをほんの少しだけ回転させるように動かした。すると、液晶パネルのデジタルな両面が動き、ボヤボヤとした曖昧な影とともにクリアなバスの影が現われた。

 水深8m、所々に残っているまばらなウィードにぴったりとくっついたバスは、彼女のワームを何の迷いもなくくわえた。スタートしてから約1時間で、彼女はすでに数尾の魚をライブウェルに入れていた。

 ほぼ同じ場所で釣っている他の選手たちは、彼女がバスをキャッチするたびに振り向き、驚きの表情を浮かべて目を凝らした。眩しいほどに輝く水面から彼女がバスを抜き上げると、まるで銀色の糸に魅せられた輝きの分身が空に向かって飛び出したような、そんな印象を与える。

 夕方に行なわれる正式な結果発表の前に、彼女の優勝が本人に突然知らされた。ウェイインエリアが沸き立ち、そこらじゅうの日焼けした顔が彼女を振り向く。

 「ジェニー!君の優勝だよ!おめでとう!」。興奮した声で、まるで自分の優勝のように誰かが言う。瞬間、彼女は小さくジャンプする。そして、手のひらを胸の前で組み合わせて祈るように叫んだ。

 「ほんと?信じられない!1位なの?」暖かな日差しに包まれてブロンドが揺れ、赤い顔にかかる。彼女は左手でそれをかきあげる。周りにいたオフィシャルや選手たちが曇りのない美しい笑顔で彼女にいくつもの言葉を贈った。

 「うれしいわ。セキのおかげよ」。彼女がそう言うと、ボーターの関は照れ臭そうにして笑った。

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 琵琶湖名鉄沖の魚礁、通称Big rock humpと呼ばれる水中のビッグストラクチャーを彼女は選んだ。前方に名鉄のエリ、その遥か向こうには赤白の鉄塔が見える。

 彼女はあたりの景色とソナーを交互に見つめている。ショアーに並ぶコンクリートグレーの建造物、番人のように退屈そうな顔をした鉄塔、黒アリの行列に似たソナーの液晶パネル、それらを注意深く何度も見返してはモーターを回転させる。

 「ここで釣れよったらでかいデ」。コンソールのフラッシャーを見ながらドライバーが独り言を呟く。

 彼女がマーカーブイを落とす。H形の真っ赤なプラスティックが青緑色の湖水に際立ち、映える。いびつなビッグロックに水流が絡みつき、なめるように撫でていく。ビッグロックは水底に吸いつき、それに耐えている。ワームの着底地点を考え、マーカーブイの数m先に軽くキャストする。グリーニッシュブルーのサーチライトに暗く照らされた6インチが、グリーンフレークをくねらせてビッグロックを叩いているのが分かる。ボートはブイを中心にゆっくりと円を描いている。

 約1時間後、彼女はビッグロックに見切りをつけ、浮御堂に向けてボートを走らせた。結局、名鉄沖では魚をキャッチできなかった。浮御堂沖3mラインをスピナーベイトで探る。ジェニファーが近づいてきたボートに気づく。それはブッチ・ヴァスコのボートだった。ブッチはバウチェアに座り、スピナーベイトをセットしたロッドを握っている。

 「どうだい調子は?」ブッチが大声で叫ぶ。

 「ひどいわ。あなたは?」

 「なんとかなりそうだ。やっぱりスピナーベイトだよ、プラクティスの時とほとんど同じさ。ここはあちこちにグラスがあるんだ。そこをねらってこいつを引けばいいのさ」。ブッチは一語一語を飲み込むように話した。

 「カワベが魚をキャッチした場所にもグラスがあったわ」彼女は早口でそう言うと、ブッチの背後に広がるグレーを、灰色の屋根に埋もれたショアーを、じっと見つめた。

 「ああ、俺はあっちのシャローのほうに行ってみるよ」

 ブッチが離れてから、彼女はそこで2尾のノンキーパーを釣った。2尾とも、もう1ヵ月後だったらキーパーになっているだろうといった微妙なサイズだった。

 12時30分。堅田漁港に移動すると、彼女は外していたチェアを取り付けた。いつのまにか空が雲で覆われていた。グレーのグラデーションが堅田漁港と描かれたコンクリートの壁を包みこんでいる。淡いブルーの空が千切れたグレーの隙間から入り込もうとして、太陽の気配を漂わせているが、暖かな光にあふれた空間はどこにも見当たらない。彼女はゆっくりとボートを動かして、ソナーに映るウィードの影を確認する。魚は絶対にいるはずだった。堤防のアウトサイドからまわって、突端のところでボートをステイさせた。ザラザラとした堤防の上に鳥が1羽とまっている。茶色の小さな鳥だ。彼女がキャストした白いスピナーベイトが、グレーのザラザラの突端すれすれに落ちる。とたんに鳥が飛び立つ。まわりに仲間はない。彼女は同じサイズのバスを10尾近く釣った。30cmに2cmほど足りないノンキーパー。

 「これが河口湖ならまた優勝ね」。彼女は少女の頃見た夏の空のブルーを思い出した。月に寝転んで眺めたような濃い水色が少しだけグレーにのぞいている。彼女は手に持ったノンキーパーを水色の空間に向かって掲げた。それは間違いなくブルーヘの扉だった。飛び立った鳥が空一杯に膨張したグレーの下で喘いでいる。グレーがすべてを押し潰そうとしている。鳥は何かを求めるように、何かに魅せられたように、黒い点になって、グレーにうずもれた淡く透き通ったブルーに、濃い夏の可能性に満ちたブルーに向かって、その小さな鳥は飛んでいった。

 暖かい太陽の香りと、あの湖の底のような色を探して……。

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【あとがき】
おそらく十数年ぶりに本稿を読み返してみて新たに気付いた点をいくつか書いておく。

読んでいてもしか気になった方もあるもしれないが、何度か登場する「黄色のスーツを着たドライバー」。
この方は文字通り、当日ジェニファーが乗っていたボートを操船したボートドライバーだ。
ジェニファーは米国人で船舶免許を持っていないから、日本国内ではボートを操船することができない。ジェニファーのボートには日本人のドライバーが乗り込んで、彼女の手足となってボートを操船したというわけ。
聞けば当たり前のことだが、記事中では説明されていないので分かりにくかったかもしれない。

あと、自分的に気になって仕方ないのが「ポイント」という単語だ。記事中では、いわゆる日本独自の釣り用語として「エリア」ないし「スポット」の意味で用いられている。
これは『Basser』を発行する「つり人社」の当時の用語規則に準じたもの。
日本の釣り文化に広く浸透した和製英語の釣り用語が、バスの世界でも普通に用いられていたということ。逆に言えば、当時の日本の釣り界における、バスフィッシングの影響力の矮小さを物語っているとも言えるかもしれない。

正確には覚えていないが、記名記事を書くようになって割とすぐに、自分は「ポイント」という用語を上記の意味では使わないようにした。
今ではすっかり認知されていると思うが、「ポイント」は本来「岬」の意味であって、アメリカでは「ロングポイント」とか「セカンダリーポイント」といった感じで頻繁に使われる。

そうそう、今回久しぶりに本稿を読み返して思い出したのは、当時の日本のバスフィッシングにおけるアメリカ西部の影響の大きさだ。
ジェニファー自身がアリゾナ(米国南西部)の出身であるわけだが、その彼女のホームレイクであったレイクミードやパウエルは、当時の日本ではサムレイバンやケンタッキーレイクよりはるかに知名度が高かったと思う。
「アメリカのバスフィッシング」と言った時、それは6対4くらいの比率でアメリカ西部を指していた。もちろん6が西部、4がその他である。

なぜそうだったのか。理由のひとつは当時から毎年ミードで開催されていたUSオープンの存在がある。
USオープンは日本人にとってもっとも身近なアメリカン・プロトーナメントだったのだ。参戦する日本人も多く、テクニック面でのフィードバックも大きかったから、当然と言えば当然。
あと、当時頻繁に来日していたゲーリー・ヤマモト氏の影響も大きかっただろう。アリゾナのレイク・パウエルで磨かれたゲーリーの「グラビング」は、もっとも身近なアメリカンスタイルでもあった。

自分自身、大学卒業後に渡米した際、真っ先に訪れたのもアリゾナだった。
ジェニファーやブッチ・バスコにも会いに行った。ジェニファーは、酷いオンボロの車に乗っていた自分を心配してくれて、本当に親切にしてもらった。
そのジェニファーは今何をしているか?

あのロビーナ・ルアーの社長です。

ジェニファーとは関係ないが、1989年春号の『Basser』には、ちなみにこんな広告が出ていた。

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当時のダイワの広告だ。TEAM DAIWA! それにしても、錚々たる顔ぶれ!
やはりバブルだったんですナァ。80年代の日本は。

冒頭で、今回のジェニファーの記事は「来日外人シリーズ」のひとつだと書いたが、1989年からの数年間、日本にはアメリカの大物プロが毎年やってきていた。
そのハイライトとも言うべき超大物が、89年のラリー・ニクソンと90年のリック・クラン。
自分はまったく幸運にも、当時まだ学生であったにもかかわらず、彼ら大物プロの取材を任された。
次回の「過去記事」は、この時の無記名記事をアップしよう。
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