コーデルのホットスポットが「バイブレーションベイトの元祖」と呼ばれる理由のその2。
前回からの続きです。
★バイブレーションパターンの確立★
バイブレーションベイトでプリスポーンフィッシュをねらうというのは、グラスが多いアメリカ南部のリザーバーにおける春の定番パターンです(日本も琵琶湖ではありますよね)。
近いところでは昨シーズン2014年の開幕戦(ジョージア州セミノール)初日に計30Lb5ozの超ヘビーリミットを叩き出したショウ・グリズビーが行なっていたのも、このパターンでした。
このように、ハマった時の爆発力がハンパないのが、春のバイブレーションパターン。
ちなみに、この時グリズビーが使っていたのはレッドアイシャッド(Red Eye Shad)の3/4ozモデル。
カラーは↓のチリクロウ(Chili Craw)でした。
この春のバイブレーションパターンは水深2m程度のグラス(ウィード)エッジないしツラをバイブレーションベイトでトレースしていくという釣り方自体は極シンプルなもので、キーになるのはむしろ場所とタイミングのほうです。
プリスポーンフィッシュがシャローグラスにステージングしているかどうか。
そのタイミングを見極めることが全てと言っていいでしょう。
上の動画のショウ・グリズビーも、初日に30Lb超を釣って試合をリードしたものの、2日目以降はエリアから魚が動いてしまい、最終8位でのフィニッシュでした(この時の優勝はチャターベイトパターンのブレット・ハイト)。
で、ここからが本題なのですが、この「春のバイブレーション」がパターンとして確立されたのは、実はずいぶん昔のことです。
今から40年以上も前。
1970年代初頭、舞台は黎明期のB.A.S.S.トーナメントでした。
B.A.S.S.の創設は1968年。
創設者のレイ・スコットは各州の遊漁規則に準じたキーパーサイズの導入とリミット制の採用など、当時としては厳しいレギュレーションを取り入れ、競技としてのバスフィッシングトーナメントを目指しました。
創設当初はリリースという概念はまだなく、ライブウェルという装置もまだ存在すらしていなかったわけで、ウェイインに持ち込まれたバスはすべて死んだ状態。
それでも、B.A.S.S.トーナメントの運営方法が当時の最先端であったことは確かです。
言い換えれば、そのくらいB.A.S.S.誕生以前のバストーナメントが原始的だったとも言えるでしょう。
まぁ、1970年前後のアメリカのトーナメントというのは、まさにトーナメントの黎明期であったということです。
で、ここで思い出してほしいのが前回のエントリーで書いたホットスポットとラトルトラップの話。
コーデルのホットスポット(Hot Spot)がワンノッカー化したのが1960年代半ば以降、これに続いてビルルイスのラトルトラップ(Rat-L-Trap)が発売されたのが1968年(〜1969年)と書きました。
つまり、B.A.S.S.の黎明期とラトル入りバイブレーションベイトの登場は実は時期が重なっていたのです。
これは偶然のようでいて偶然ではないのですが、さらに、ここにもうひとつ重要な出来事が重なりました。
それは、春のバイブレーションパターン確立の中心地となったサムレイバンやトレドベンドといったテキサス東部のリザーバーの完成が1960年代半ば〜後半であったことです。
正確には、サムレイバンリザーバーの完成が1965年、トレドベンドは1969年(貯水が完了した年)。
つまり、B.A.S.S.が創設され、ホットスポットがワンノッカー化し、ラトルトラップが発売されたちょうどその頃、テキサス東部に広大なグラスフラットを有するバイブレーションパターン向きの巨大リザーバーが2つも誕生していた、ということ。
ちなみに、B.A.S.S.戦で初めてこれらのレイクで試合が開催されたのは、サムレイバンが1968年、トレドベンドが1970年でした。
いずれも貯水が完了する前からバスの稚魚および成魚放流が行なわれていたため、その頃にはトーナメントがすでに可能な状態でした。
実際、1970年当時、サムレイバンは「全米で最もホットなバスレイク」として評判だったようで、当時の雑誌にはレイバンやトレドベンドの話がよく登場します。
そもそも、現在アメリカのバスレイクとして知られるほとんどの湖はリザーバー(人造湖)で、その多くは1930年代〜1960年代にかけて造られています。
アメリカのダム建設事業は大恐慌(1929年のNY株式暴落から始まった世界恐慌)の後に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領が行なった一連の経済政策=ニューディール政策の一環として実施されたもので、失業者の吸収と貧困状態が続いていた南部の救済を意図して行なわれた大規模公共事業でした。
アメリカにおけるバスフィッシングの中心は南部という感覚を我々は持っていますが、それはニューディール政策による無数のダム建設が南部諸州において集中的に行なわれ、その結果として数十ものリザーバーが南部の各地に造られたから、です。
もしもニューディール政策が実施されず、ダム建設によるリザーバーが造られていなければ、もともと自然湖がほとんどない(フロリダを除いて)南部にバスの釣り場など存在していなかったでしょう。
そういう意味では、1929年のNY株式市場の大暴落が起こらなければ、アメリカのバスフィッシングはまったく別の状況になっていたのかもしれません……。
またこのことは、ラージマウスの正式名が「ノーザンラージマウスバス(Northern Largemouth Bass)」であることからも分かります。
本来、ラージマウスバスは五大湖地方など北米大陸北部からミシシッピー川流域にかけてが原産の魚であって、テキサス以西および東部(ノースキャロライナ以北)の水域には生息していませんでした。
(南部原産はむしろスポッテッドバス。スモールマウスもアーカンソーから北部アラバマなど一部南部を含む中西部が原産)。
ニューディール政策の御旗のもと、南部各地に造られた数多くのリザーバーを遊漁のための釣り場として有効活用するべく、ラージマウスバスを含む多くの魚種が各州政府の手によって積極的に放流されたのでした。
話がやや横道に逸れました(;^_^A
ともかく、春のバイブレーションパターンを成立させるために必要な条件というものが、1960年代後半になってようやく揃ったわけです。
「必要な条件」とはすなわち、ルアー、釣り場、トーナメントの3つ。
・ルアー>ホットスポットやラトルトラップの発売
・釣り場>グラスフラットを有する湖(具体的にはサムレイバン、トレドベンドなど)
・トーナメント>B.A.S.S.の誕生
これらが揃ったのが1960年代後半だった、と……。
つまり、1930年代に発売されていたピコパーチ(PICO Perch)では、「春のバイブレーションパターン」の確立には早すぎたということ。
(ロッドやリール、ラインといったタックル面でも1930年代では難しかったでしょうね)。
その後、1970年代に入ると、ラトルトラップの大ヒットを受けて各社からたくさんの類似ルアーが発売され、「リップレスクランク」「ラトルベイト」「バイブレーションベイト」といった呼び名でひとつのジャンルが形成されるまでになるわけです。
例えば、こんなのもありましたね。
いろいろとフォロワーが出たバイブレーションベイトですが、結局これらはどれも時間という無慈悲な審判によって消えていきました。
その当時に発売されたバイブレーションベイトで現在まで残っているのは、結局、コーデルのスポット(Cordell Spot)とビルルイスのラトルトラップ(Bill Lewis Rat-L-Trap)だけ。
ラトルトラップも先にホットスポットが存在しなければ生まれなかったはずで、そういう意味ではやはりコーデルのホットスポットこそが「元祖」と言えるのでしょう。
しかし、そのコーデル・ホットスポットもラトルトラップの人気を受けて時代とともに「変貌」を余儀なくされています。
こうしてあらためて比較してみると、コットンさんがしっかり設計していた元祖ホットスポットとホットスポット後期型くらいまでが本当の「コーデル・スポット」という感じがしますね。
最初はここまで書くつもりはなかったのですが、なんか流れでズルズルと長文になってしまいました……。
ルアー史に残る名デザイナー、コットン・コーデル氏の冥福を心からお祈りします。
前回からの続きです。
★バイブレーションパターンの確立★
バイブレーションベイトでプリスポーンフィッシュをねらうというのは、グラスが多いアメリカ南部のリザーバーにおける春の定番パターンです(日本も琵琶湖ではありますよね)。
近いところでは昨シーズン2014年の開幕戦(ジョージア州セミノール)初日に計30Lb5ozの超ヘビーリミットを叩き出したショウ・グリズビーが行なっていたのも、このパターンでした。
このように、ハマった時の爆発力がハンパないのが、春のバイブレーションパターン。
ちなみに、この時グリズビーが使っていたのはレッドアイシャッド(Red Eye Shad)の3/4ozモデル。
カラーは↓のチリクロウ(Chili Craw)でした。
この春のバイブレーションパターンは水深2m程度のグラス(ウィード)エッジないしツラをバイブレーションベイトでトレースしていくという釣り方自体は極シンプルなもので、キーになるのはむしろ場所とタイミングのほうです。
プリスポーンフィッシュがシャローグラスにステージングしているかどうか。
そのタイミングを見極めることが全てと言っていいでしょう。
上の動画のショウ・グリズビーも、初日に30Lb超を釣って試合をリードしたものの、2日目以降はエリアから魚が動いてしまい、最終8位でのフィニッシュでした(この時の優勝はチャターベイトパターンのブレット・ハイト)。
で、ここからが本題なのですが、この「春のバイブレーション」がパターンとして確立されたのは、実はずいぶん昔のことです。
今から40年以上も前。
1970年代初頭、舞台は黎明期のB.A.S.S.トーナメントでした。
B.A.S.S.の創設は1968年。
創設者のレイ・スコットは各州の遊漁規則に準じたキーパーサイズの導入とリミット制の採用など、当時としては厳しいレギュレーションを取り入れ、競技としてのバスフィッシングトーナメントを目指しました。
創設当初はリリースという概念はまだなく、ライブウェルという装置もまだ存在すらしていなかったわけで、ウェイインに持ち込まれたバスはすべて死んだ状態。
↑1969年ロスバーネット戦を優勝したピート・ヘンソン(右)とB.A.S.S.創設者のレイ・スコット(左)。こんな感じで当時はまだウェイイン=死魚でした。Photo by B.A.S.S.
それでも、B.A.S.S.トーナメントの運営方法が当時の最先端であったことは確かです。
言い換えれば、そのくらいB.A.S.S.誕生以前のバストーナメントが原始的だったとも言えるでしょう。
まぁ、1970年前後のアメリカのトーナメントというのは、まさにトーナメントの黎明期であったということです。
で、ここで思い出してほしいのが前回のエントリーで書いたホットスポットとラトルトラップの話。
コーデルのホットスポット(Hot Spot)がワンノッカー化したのが1960年代半ば以降、これに続いてビルルイスのラトルトラップ(Rat-L-Trap)が発売されたのが1968年(〜1969年)と書きました。
つまり、B.A.S.S.の黎明期とラトル入りバイブレーションベイトの登場は実は時期が重なっていたのです。
これは偶然のようでいて偶然ではないのですが、さらに、ここにもうひとつ重要な出来事が重なりました。
それは、春のバイブレーションパターン確立の中心地となったサムレイバンやトレドベンドといったテキサス東部のリザーバーの完成が1960年代半ば〜後半であったことです。
正確には、サムレイバンリザーバーの完成が1965年、トレドベンドは1969年(貯水が完了した年)。
つまり、B.A.S.S.が創設され、ホットスポットがワンノッカー化し、ラトルトラップが発売されたちょうどその頃、テキサス東部に広大なグラスフラットを有するバイブレーションパターン向きの巨大リザーバーが2つも誕生していた、ということ。
ちなみに、B.A.S.S.戦で初めてこれらのレイクで試合が開催されたのは、サムレイバンが1968年、トレドベンドが1970年でした。
いずれも貯水が完了する前からバスの稚魚および成魚放流が行なわれていたため、その頃にはトーナメントがすでに可能な状態でした。
実際、1970年当時、サムレイバンは「全米で最もホットなバスレイク」として評判だったようで、当時の雑誌にはレイバンやトレドベンドの話がよく登場します。
↑1970年1月のB.A.S.S.サムレイバン戦を優勝したマイク・ボノの3日目の魚。当時のリミットは1日15尾。特別ビッグフィッシュは入ってないですね。Photo by B.A.S.S.
そもそも、現在アメリカのバスレイクとして知られるほとんどの湖はリザーバー(人造湖)で、その多くは1930年代〜1960年代にかけて造られています。
アメリカのダム建設事業は大恐慌(1929年のNY株式暴落から始まった世界恐慌)の後に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領が行なった一連の経済政策=ニューディール政策の一環として実施されたもので、失業者の吸収と貧困状態が続いていた南部の救済を意図して行なわれた大規模公共事業でした。
↑ニューディール政策の目玉、テネシー渓谷ダム建設事業の第一弾として着手されたテネシー州ノリスレイクダム、工事着工時(1933年)の様子。多くの失業者がダム建設に従事した。
アメリカにおけるバスフィッシングの中心は南部という感覚を我々は持っていますが、それはニューディール政策による無数のダム建設が南部諸州において集中的に行なわれ、その結果として数十ものリザーバーが南部の各地に造られたから、です。
もしもニューディール政策が実施されず、ダム建設によるリザーバーが造られていなければ、もともと自然湖がほとんどない(フロリダを除いて)南部にバスの釣り場など存在していなかったでしょう。
そういう意味では、1929年のNY株式市場の大暴落が起こらなければ、アメリカのバスフィッシングはまったく別の状況になっていたのかもしれません……。
またこのことは、ラージマウスの正式名が「ノーザンラージマウスバス(Northern Largemouth Bass)」であることからも分かります。
本来、ラージマウスバスは五大湖地方など北米大陸北部からミシシッピー川流域にかけてが原産の魚であって、テキサス以西および東部(ノースキャロライナ以北)の水域には生息していませんでした。
(南部原産はむしろスポッテッドバス。スモールマウスもアーカンソーから北部アラバマなど一部南部を含む中西部が原産)。
ニューディール政策の御旗のもと、南部各地に造られた数多くのリザーバーを遊漁のための釣り場として有効活用するべく、ラージマウスバスを含む多くの魚種が各州政府の手によって積極的に放流されたのでした。
話がやや横道に逸れました(;^_^A
ともかく、春のバイブレーションパターンを成立させるために必要な条件というものが、1960年代後半になってようやく揃ったわけです。
「必要な条件」とはすなわち、ルアー、釣り場、トーナメントの3つ。
・ルアー>ホットスポットやラトルトラップの発売
・釣り場>グラスフラットを有する湖(具体的にはサムレイバン、トレドベンドなど)
・トーナメント>B.A.S.S.の誕生
これらが揃ったのが1960年代後半だった、と……。
つまり、1930年代に発売されていたピコパーチ(PICO Perch)では、「春のバイブレーションパターン」の確立には早すぎたということ。
(ロッドやリール、ラインといったタックル面でも1930年代では難しかったでしょうね)。
その後、1970年代に入ると、ラトルトラップの大ヒットを受けて各社からたくさんの類似ルアーが発売され、「リップレスクランク」「ラトルベイト」「バイブレーションベイト」といった呼び名でひとつのジャンルが形成されるまでになるわけです。
例えば、こんなのもありましたね。
↑ビルノーマン・ラケットシャッド(Bill Norman Racket Shad)。ラトル音はカチカチ系のワンノッカー。
↑シュガーシャッド(Sugar Shad)。後年はルーハージェンセン(Luhr-Jensen)のルアーとして売られたが、元はフロリダのローカルベイト。70年代半ばにジャック・デイビス(Jack Davis)が設計したもので、後にエド・ムーア(Ed Moore)に権利が売られ、さらにその後ルーハージェンセンに売られた。高音と低音の複合ラトルサウンド。
↑マンズ・ハックルバック・ブルフィン(Mann's Hackleback Bullfin)。
↑バグリー・シャッドアラック(Bagley's Shad-A-Lac)。ウッドベイトメーカーとして知られるあのバグリーが作ったプラクティック製バイブレーション。硬質で高めのジャラジャラ音。
いろいろとフォロワーが出たバイブレーションベイトですが、結局これらはどれも時間という無慈悲な審判によって消えていきました。
その当時に発売されたバイブレーションベイトで現在まで残っているのは、結局、コーデルのスポット(Cordell Spot)とビルルイスのラトルトラップ(Bill Lewis Rat-L-Trap)だけ。
ラトルトラップも先にホットスポットが存在しなければ生まれなかったはずで、そういう意味ではやはりコーデルのホットスポットこそが「元祖」と言えるのでしょう。
しかし、そのコーデル・ホットスポットもラトルトラップの人気を受けて時代とともに「変貌」を余儀なくされています。
↑ホットスポット(Hot Spot)の後期型。腹部に「Cordell TH' SPOT」と立体押し出し文字が見えるが、設計はオリジナルのホットスポットとは別物。ボディーの厚みが増し、既存の強力なワンノッカーサウンドに加えて、多数のBB弾によるラトルトラップ的なジャラジャラ音が追加されている。個人的にはオリジナルのホットスポットを超える名作!
↑「ラトルスポット(Ratt'l Spot)」と名前を変えた80年代のモデル。ボディー後部のラトルボールがより小さなものに変更されており、上のホットスポット後期型よりも高いジャラジャラ音(シャラシャラに近い感じ)。より高めの音だが、ヘッド部のワンノッカーは健在。全体としてスポットシリーズで最も高いラトルサウンド。
↑90年代にスーパースポット(Super Spot)と名前を変えてフルモデルチェンジしたモデル。上のラトルスポットより低めのジャラジャラ音。丸みを帯びた腹部を持つ独特のボディー形状だが、実はその昔、ボーマー(Bomber)から発売されていたラトルRRR-A(Ratl RRR "A")の流用。ラトルRRR-Aはヘッド部に強力なワンノッカーラトルを備える傑作だったが、残念ながらスーパースポットには搭載されていない。
こうしてあらためて比較してみると、コットンさんがしっかり設計していた元祖ホットスポットとホットスポット後期型くらいまでが本当の「コーデル・スポット」という感じがしますね。
最初はここまで書くつもりはなかったのですが、なんか流れでズルズルと長文になってしまいました……。
ルアー史に残る名デザイナー、コットン・コーデル氏の冥福を心からお祈りします。